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渡り鳥

著者:太宰治

わたりどり - だざい おさむ

文字数:6,647 底本発行年:1975
著者リスト:
著者太宰 治
底本: 太宰治全集9
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序章-章なし

おもてには快楽けらくをよそい、心には悩みわずらう。

――ダンテ・アリギエリ

晩秋の夜、音楽会もすみ、日比谷公会堂から、おびただしい数のからすが、さまざまの形をして、押し合い、もみ合いしながらぞろぞろ出て来て、やがておのおのの家路に向って、むらむらぱっと飛び立つ。

「山名先生じゃ、ありませんか?」

呼びかけた一羽の烏は、無帽蓬髪ほうはつの、ジャンパー姿で、せて背の高い青年である。

「そうですが、……」

呼びかけられた烏は中年の、太った紳士である。 青年にかわまず、有楽町のほうに向ってどんどん歩きながら、

「あなたは?」

「僕ですか?」

青年は蓬髪をき上げて笑い、

「まあ、一介いっかいのデリッタンティとでも、……」

「何かご用ですか?」

「ファンなんです。 先生の音楽評論のファンなんです。 このごろ、あまりお書きにならぬようですね。」

「書いていますよ。」

しまった! と青年は、暗闇の中で口をゆがめる。 この青年は、東京の或る大学に籍を有しているのだが、制帽も制服も持っていない。 そうして、ジャンパーと、それから間着あいぎの背広服を一揃い持っている。 肉親からの仕送りがまるで無い様子で、る時は靴磨くつみがきをした事もあり、また或る時は宝くじ売りをした事もあって、この頃は、表看板は或る出版社の編輯へんしゅうの手伝いという事にして、またそれも全くの出鱈目でたらめでは無いが、裏でちょいちょい闇商売などに参画しているらしいので、ふところは、割にあたたかの模様である。

「音楽は、モオツアルトだけですね。」

お世辞の失敗を取りかえそうとして、山名先生のモオツアルト礼讃らいさんの或る小論文を思い出し、おそるおそるひとりごとみたいにつぶやいて先生におもねる。

「そうとばかりも言えないが、……」

しめた! 少しご機嫌きげんが直って来たようだ。 けてもいい、この先生の、外套がいとうえりの蔭の頬が、ゆるんだに違いない。

青年は図に乗り、

「近代音楽の堕落は、僕は、ベートーヴェンあたりからはじまっていると思うのです。 音楽が人間の生活に向き合って対決を迫るとは、邪道だと思うんです。 音楽の本質は、あくまでも生活の伴奏であるべきだと思うんです。 僕は今夜、久し振りにモオツアルトを聞き、音楽とは、こんなものだとつくづく、……」

「僕は、ここから乗るがね。」

有楽町駅である。

「ああ、そうですか、失礼しました。 今夜は、先生とお話が出来て、うれしかったです。」

ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、青年は、軽くお辞儀をして、先生と別れ、くるりと廻れ右をして銀座のほうに向う。

ベートーヴェンを聞けば、ベートーヴェンさ。 モオツアルトを聞けば、モオツアルトさ。 どっちだっていいじゃないか。

序章-章なし
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渡り鳥 - 情報

渡り鳥

わたりどり

文字数 6,647文字

著者リスト:
著者太宰 治

底本 太宰治全集9

親本 筑摩全集類聚版太宰治全集

青空情報


底本:「太宰治全集9」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(平成元)年5月30日第1刷発行
   1998(平成10)年6月15日第5刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月発行
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
2000年1月25日公開
2004年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:渡り鳥

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