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水仙

著者:太宰治

すいせん - だざい おさむ

文字数:11,316 底本発行年:1975
著者リスト:
著者太宰 治
底本: 太宰治全集5
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序章-章なし

「忠直卿行状記」という小説を読んだのは、僕が十三か、四のときの事で、それっきり再読の機会を得なかったが、あの一篇の筋書だけは、二十年後のいまもなお、忘れずに記憶している。 奇妙にかなしい物語であった。

剣術の上手じょうずな若い殿様が、家来たちと試合をして片っ端から打ち破って、大いに得意で庭園を散歩していたら、いやなささやきが庭の暗闇の奥から聞えた。

「殿様もこのごろは、なかなかの御上達だ。 負けてあげるほうも楽になった。」

「あははは。」

家来たちの不用心な私語である。

それを聞いてから、殿様の行状は一変した。 真実を見たくて、狂った。 家来たちに真剣勝負をいどんだ。 けれども家来たちは、真剣勝負に於いてさえも、本気に戦ってくれなかった。 あっけなく殿様が勝って、家来たちは死んでゆく。 殿様は、狂いまわった。 すでに、おそるべき暴君である。 ついには家も断絶せられ、その身も監禁せられる。

たしか、そのような筋書であったと覚えているが、その殿様を僕は忘れる事が出来なかった。 ときどき思い出しては、溜息ためいきをついたものだ。

けれども、このごろ、気味の悪い疑念が、ふいと起って、誇張ではなく、夜も眠られぬくらいに不安になった。 その殿様は、本当に剣術の素晴らしい名人だったのではあるまいか。 家来たちも、わざと負けていたのではなくて、本当に殿様の腕前には、かなわなかったのではあるまいか。 庭園の私語も、家来たちの卑劣な負け惜しみに過ぎなかったのではあるまいか。 あり得る事だ。 僕たちだって、い先輩にさんざん自分たちの仕事を罵倒ばとうせられ、その先輩の高い情熱と正しい感覚に、ほとほと参ってしまっても、その先輩とわかれた後で、

「あの先輩もこのごろは、なかなかの元気じゃないか。 もういたわってあげる必要もないようだ。」

「あははは。」

などという実に、いやしい私語を交した夜も、ないわけではあるまい。 それは、あり得る事なのである。 家来というものは、その人柄に於いて、かならず、殿様よりも劣っているものである。 あの庭園の私語も、家来たちのひねこびた自尊心を満足させるための、きたない負け惜しみに過ぎなかったのではあるまいか。 とすると、慄然りつぜんとするのだ。 殿様は、真実を掴みながら、真実を追い求めて狂ったのだ。 殿様は、事実、剣術の名人だったのだ。 家来たちは、決してわざと負けていたのではなかった。 事実、かなわなかったのだ。 それならば、殿様が勝ち、家来が負けるというのは当然の事で、後でごたごたの起るべきはずは無いのであるが、やっぱり、大きい惨事が起ってしまった。 殿様が、御自分の腕前に確乎不動の自信を持っていたならば、なんの異変も起らず、すべてが平和であったのかも知れぬが、古来、天才は自分の真価を知ることはなはだうといものだそうである。 自分の力が信じられぬ。 そこに天才の煩悶はんもんと、深い祈りがあるのであろうが、僕は俗人の凡才だから、その辺のことは正確に説明できない。

序章-章なし
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水仙 - 情報

水仙

すいせん

文字数 11,316文字

著者リスト:
著者太宰 治

底本 太宰治全集5

親本 筑摩全集類聚版太宰治全集

青空情報


底本:「太宰治全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(平成元)年1月31日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:高橋真也
2000年4月1日公開
2005年10月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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