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黄金風景

著者:太宰治

おうごんふうけい - だざい おさむ

文字数:2,939 底本発行年:1974
著者リスト:
著者太宰 治
底本: きりぎりす
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序章-章なし

海の岸辺に緑なすかしの木、その樫の木に黄金の細き鎖のむすばれて   ―プウシキン―

私は子供のときには、余りたちのいい方ではなかった。 女中をいじめた。 私は、のろくさいことはきらいで、それゆえ、のろくさい女中をことにもいじめた。 お慶は、のろくさい女中である。 林檎りんごの皮をむかせても、むきながら何を考えているのか、二度も三度も手を休めて、おい、とその度毎にきびしく声を掛けてやらないと、片手に林檎、片手にナイフを持ったまま、いつまでも、ぼんやりしているのだ。 足りないのではないか、と思われた。 台所で、何もせずに、ただのっそりつっ立っている姿を、私はよく見かけたものであるが、子供心にも、うすみっともなく、妙にかんにさわって、おい、お慶、日は短いのだぞ、などと大人びた、いま思っても脊筋せすじの寒くなるような非道の言葉を投げつけて、それで足りずに一度はお慶をよびつけ、私の絵本の観兵式の何百人となくうようよしている兵隊、馬に乗っている者もあり、旗持っている者もあり、銃になっている者もあり、そのひとりひとりの兵隊の形をはさみでもって切り抜かせ、不器用なお慶は、朝から昼飯も食わず日暮頃までかかって、やっと三十人くらい、それも大将のひげを片方切り落したり、銃持つ兵隊の手を、くまの手みたいに恐ろしく大きく切り抜いたり、そうしていちいち私に怒鳴られ、夏のころであった、お慶は汗かきなので、切り抜かれた兵隊たちはみんな、お慶の手の汗で、びしょびしょれて、私はつい癇癪かんしゃくをおこし、お慶をった。 たしかに肩を蹴ったはずなのに、お慶は右のほおをおさえ、がばと泣き伏し、泣き泣きいった。 「親にさえ顔を踏まれたことはない。 一生おぼえております」うめくような口調で、とぎれ、とぎれそういったので、私は、流石さすがにいやな気がした。 そのほかにも、私はほとんどそれが天命でもあるかのように、お慶をいびった。 いまでも、多少はそうであるが、私には無智な魯鈍ろどんの者は、とても堪忍かんにんできぬのだ。

一昨年、私は家を追われ、一夜のうちに窮迫し、ちまたをさまよい、諸所に泣きつき、その日その日のいのちつなぎ、やや文筆でもって、自活できるあてがつきはじめたと思ったとたん、病を得た。 ひとびとの情で一夏、千葉県船橋町、どろの海のすぐ近くに小さい家を借り、自炊の保養をすることができ、毎夜毎夜、寝巻をしぼる程の寝汗とたたかい、それでも仕事はしなければならず、毎朝々々のつめたい一合の牛乳だけが、ただそれだけが、奇妙に生きているよろこびとして感じられ、庭のすみ夾竹桃きょうちくとうの花が咲いたのを、めらめら火が燃えているようにしか感じられなかったほど、私の頭もほとほと痛み疲れていた。

そのころのこと、戸籍調べの四十に近い、せて小柄のおまわりが玄関で、帳簿の私の名前と、それから無精髯ぶしょうひげのばし放題の私の顔とを、つくづく見比べ、おや、あなたは……のお坊ちゃんじゃございませんか? そう言うお巡りのことばには、強い故郷のなまりがあったので、「そうです」私はふてぶてしく答えた。 「あなたは?」

お巡りは痩せた顔にくるしいばかりにいっぱいの笑をたたえて、

「やあ。 やはりそうでしたか。 お忘れかもしれないけれど、かれこれ二十年ちかくまえ、私はKで馬車やをしていました」

Kとは、私の生れた村の名前である。

「ごらんの通り」私は、にこりともせずに応じた。 「私も、いまは落ちぶれました」

「とんでもない」お巡りは、なおも楽しげに笑いながら、「小説をお書きなさるんだったら、それはなかなか出世です」

私は苦笑した。

「ところで」とお巡りは少し声をひくめ、「お慶がいつもあなたのおうわさをしています」

「おけい?」すぐにはみこめなかった。

「お慶ですよ。 お忘れでしょう。 お宅の女中をしていた――」

思い出した。 ああ、と思わずうめいて、私は玄関の式台にしゃがんだまま、頭をたれて、その二十年まえ、のろくさかったひとりの女中に対しての私の悪行が、ひとつひとつ、はっきり思い出され、ほとんど座に耐えかねた。

「幸福ですか?」ふと顔をあげてそんな突拍子ない質問を発する私のかおは、たしかに罪人、被告、卑屈な笑いをさえ浮べていたと記憶する。

「ええ、もう、どうやら」くったくなく、そうほがらかに答えて、お巡りはハンケチで額の汗をぬぐって、「かまいませんでしょうか。 こんどあれを連れて、いちどゆっくりお礼にあがりましょう」

私は飛び上るほど、ぎょっとした。 いいえ、もう、それには、とはげしく拒否して、私は言い知れぬ屈辱感に身悶みもだえしていた。

けれども、お巡りは、朗かだった。

序章-章なし
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黄金風景 - 情報

黄金風景

おうごんふうけい

文字数 2,939文字

著者リスト:
著者太宰 治

底本 きりぎりす

青空情報


底本:「きりぎりす」新潮文庫、新潮社
   1974(昭和49)年9月30日発行
   1988(昭和63)年3月15日29刷改版
   1996(平成8)年9月25日46刷
初出:「国民新聞」
   1939(昭和14)年3月
入力:深水英一郎・加藤るみ
校正:加藤るみ
1999年1月1日公開
2004年3月4日修正
※「日本文学(e-text)全集」作成ファイル
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです

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