ヴィヨンの妻
著者:太宰治
ヴィヨンのつま - だざい おさむ
文字数:20,298 底本発行年:1950
一
あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのまま黙って寝ていました。
夫は、隣の部屋に電気をつけ、はあっはあっ、とすさまじく荒い呼吸をしながら、机の引出しや本箱の引出しをあけて
「おかえりなさいまし。 ごはんは、おすみですか? お戸棚に、おむすびがございますけど」
と申しますと、
「や、ありがとう」といつになく優しい返事をいたしまして、「坊やはどうです。 熱は、まだありますか?」とたずねます。
これも珍らしい事でございました。
坊やは、来年は四つになるのですが、栄養不足のせいか、または夫の酒毒のせいか、病毒のせいか、よその二つの子供よりも小さいくらいで、歩く
けれどもその夜はどういうわけか、いやに優しく、坊やの熱はどうだ、など珍らしくたずねて下さって、私はうれしいよりも、何だかおそろしい予感で、脊筋が寒くなりました。
何とも返辞の仕様が無く黙っていますと、それから、しばらくは、ただ、夫の
「ごめん下さい」
と、女のほそい声が玄関で致します。 私は、総身に冷水を浴びせられたように、ぞっとしました。
「ごめん下さい。
こんどは、ちょっと鋭い語調でした。 同時に、玄関のあく音がして、
「大谷さん! いらっしゃるんでしょう?」
と、はっきり怒っている声で言うのが聞えました。
夫は、その時やっと玄関に出た様子で、
「なんだい」
と、ひどくおどおどしているような、まの抜けた返辞をいたしました。
「なんだいではありませんよ」と女は、声をひそめて言い、「こんな、ちゃんとしたお家もあるくせに、どろぼうを働くなんて、どうした事です。 ひとのわるい冗談はよして、あれを返して下さい。 でなければ、私はこれからすぐ警察に訴えます」
「何を言うんだ。 失敬な事を言うな。 ここは、お前たちの来るところでは無い。 帰れ! 帰らなければ、僕のほうからお前たちを訴えてやる」
その時、もうひとりの男の声が出ました。
「先生、いい度胸だね。
お前たちの来るところではない、とは出かした。