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或旧友へ送る手記

著者:芥川龍之介

あるきゅうゆうへおくるしゅき - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:3,359 底本発行年:1968
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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序章-章なし

誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。 それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。 僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。 もつとも僕の自殺する動機は特に君に伝へずともい。 レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。 この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない。 君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。 しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。 のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。 自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。 それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。 が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。 何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。 君は或は僕の言葉を信用することは出来ないであらう。 しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にゐない限り、僕の言葉は風の中の歌のやうに消えることを教へてゐる。 従つて僕は君をとがめない。 ……

僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。 僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。 マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程を描いてゐるのに違ひない。 が、僕はもつと具体的に同じことを描きたいと思つてゐる。 家族たちに対する同情などはかう云ふ欲望の前には何でもない。 これも亦君には、Inhuman の言葉を与へずにはかないであらう。 けれどもし非人間的とすれば、僕は一面には非人間的である。

僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持つてゐる。 (僕は僕の将来に対するぼんやりした不安も解剖した。 それは僕の「阿呆の一生」の中に大体は尽してゐるつもりである。 唯僕に対する社会的条件、――僕の上に影を投げた封建時代のことだけは故意にその中にも書かなかつた。 なぜ又故意に書かなかつたと言へば、我々人間は今日でも多少は封建時代の影の中にゐるからである。 僕はそこにある舞台の外に背景や照明や登場人物の――大抵は僕の所作しよさを書かうとした。 のみならず社会的条件などはその社会的条件の中にゐる僕自身に判然とわかるかどうかも疑はないわけには行かないであらう。)――僕の第一に考へたことはどうすれば苦まずに死ぬかと云ふことだつた。 縊死いしは勿論この目的に最も合する手段である。 が、僕は僕自身の縊死してゐる姿を想像し、贅沢ぜいたくにも美的嫌悪を感じた。 (僕は或女人を愛した時も彼女の文字の下手だつた為に急に愛を失つたのを覚えてゐる。)溺死も亦水泳の出来る僕には到底目的を達するはずはない。 のみならず万一成就じやうじゆするとしても縊死よりも苦痛は多いわけである。 轢死れきしも僕には何よりも先に美的嫌悪を与へずにはゐなかつた。 ピストルやナイフを用ふる死は僕の手の震へる為に失敗する可能性を持つてゐる。 ビルデイングの上から飛び下りるのもやはり見苦しいのに相違ない。 僕はこれ等の事情により、薬品を用ひて死ぬことにした。

序章-章なし
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或旧友へ送る手記

あるきゅうゆうへおくるしゅき

文字数 3,359文字

著者リスト:

底本 現代日本文學大系 43 芥川龍之介集

青空情報


底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:小浜真由美
1998年4月20日公開
2004年2月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:或旧友へ送る手記

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