• URLをコピーしました!

小さき者へ

著者:有島武郎

ちいさきものへ - ありしま たけお

文字数:10,114 底本発行年:1955
著者リスト:
著者有島 武郎
0
0
0


序章-章なし

お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、――その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが――父の書き残したものを繰拡くりひろげて見る機会があるだろうと思う。 その時この小さな書き物もお前たちの眼の前に現われ出るだろう。 時はどんどん移って行く。 お前たちの父なる私がその時お前たちにどううつるか、それは想像も出来ない事だ。 恐らく私が今ここで、過ぎ去ろうとする時代をわらあわれんでいるように、お前たちも私の古臭い心持を嗤い憐れむのかも知れない。 私はお前たちのめにそうあらんことを祈っている。 お前たちは遠慮なく私を踏台にして、高い遠い所に私を乗り越えて進まなければ間違っているのだ。 然しながらお前たちをどんなに深く愛したものがこの世にいるか、或はいたかという事実は、永久にお前たちに必要なものだと私は思うのだ。 お前たちがこの書き物を読んで、私の思想の未熟で頑固がんこなのを嗤う間にも、私たちの愛はお前たちを暖め、慰め、励まし、人生の可能性をお前たちの心に味覚させずにおかないと私は思っている。 だからこの書き物を私はお前たちにあてて書く。

お前たちは去年一人の、たった一人のママを永久に失ってしまった。 お前たちは生れると間もなく、生命に一番大事な養分を奪われてしまったのだ。 お前達の人生はそこで既に暗い。 この間ある雑誌社が「私の母」という小さな感想をかけといって来た時、私は何んの気もなく、「自分の幸福は母が始めから一人で今も生きている事だ」と書いてのけた。 そして私の万年筆がそれを書き終えるか終えないに、私はすぐお前たちの事を思った。 私の心は悪事でも働いたように痛かった。 しかも事実は事実だ。 私はその点で幸福だった。 お前たちは不幸だ。 恢復かいふくみちなく不幸だ。 不幸なものたちよ。

暁方あけがたの三時からゆるい陣痛が起り出して不安が家中にひろがったのは今から思うと七年前の事だ。 それは吹雪ふぶきも吹雪、北海道ですら、滅多めったにはないひどい吹雪の日だった。 市街を離れた川沿いの一つ家はけし飛ぶ程揺れ動いて、窓硝子ガラスに吹きつけられた粉雪は、さらぬだに綿雲に閉じられた陽の光を二重にさえぎって、夜の暗さがいつまでも部屋から退かなかった。 電燈の消えた薄暗い中で、白いものに包まれたお前たちの母上は、夢心地にうめき苦しんだ。 私は一人の学生と一人の女中とに手伝われながら、火を起したり、湯を沸かしたり、使を走らせたりした。 産婆が雪で真白になってころげこんで来た時は、家中のものが思わずほっ気息いきをついて安堵あんどしたが、昼になっても昼過ぎになっても出産の模様が見えないで、産婆や看護婦の顔に、私だけに見える気遣きづかいの色が見え出すと、私は全くあわててしまっていた。 書斎に閉じこもって結果を待っていられなくなった。 私は産室に降りていって、産婦の両手をしっかり握る役目をした。 陣痛が起る度毎たびごとに産婆は叱るように産婦を励まして、一分も早く産を終らせようとした。 然ししばらくの苦痛の後に、産婦はすぐ又深い眠りに落ちてしまった。 いびきさえかいて安々と何事も忘れたように見えた。 産婆も、後から駈けつけてくれた医者も、顔を見合わして吐息をつくばかりだった。 医師は昏睡こんすいが来る度毎に何か非常の手段を用いようかと案じているらしかった。

昼過ぎになると戸外の吹雪は段々しずまっていって、濃い雪雲から漏れる薄日の光が、窓にたまった雪に来てそっとたわむれるまでになった。 然し産室の中の人々にはますます重い不安の雲がおおかぶさった。 医師は医師で、産婆は産婆で、私は私で、銘々めいめいの不安に捕われてしまった。 その中で何等の危害をも感ぜぬらしく見えるのは、一番恐ろしい運命のふちに臨んでいる産婦と胎児だけだった。 二つの生命は昏々こんこんとして死の方へ眠って行った。

序章-章なし
━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

小さき者へ - 情報

小さき者へ

ちいさきものへ

文字数 10,114文字

著者リスト:
著者有島 武郎

底本 小さき者へ・生れ出づる悩み

青空情報


底本:「小さき者へ・生れ出づる悩み」新潮文庫、新潮社
   1955(昭和30)年1月30日初版
   1980(昭和55)年2月10日改版49刷
   1986(昭和61)年4月30日発行改版63刷
初出:「新潮」
   1918(大正7)年1月
入力:鈴木厚司
校正:鈴木厚司
1999年2月13日公開
2019年11月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:小さき者へ

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!