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或阿呆の一生

著者:芥川龍之介

あるあほうのいっしょう - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:12,272 底本発行年:1968
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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序章-章なし

僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。

君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。 しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。

僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。 しかし不思議にも後悔してゐない。 唯僕の如き悪夫、悪子、悪親を持つたものたちを如何いかにも気の毒に感じてゐる。 ではさやうなら。 僕はこの原稿の中では少くとも意識的には自己弁護をしなかつたつもりだ。

最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。 (都会人と云ふ僕の皮をぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。

昭和二年六月二十日

芥川龍之介

久米正雄君

一 時代

それは或本屋の二階だつた。 二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子はしごに登り、新らしい本を探してゐた。 モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……

そのうちに日の暮は迫り出した。 しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。 そこに並んでゐるのは本といふよりもむしろ世紀末それ自身だつた。 ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……

彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。 が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。 彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。 すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。 彼は梯子の上にたたずんだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下みおろした。 彼等は妙に小さかつた。 のみならず如何にも見すぼらしかつた。

「人生は一行いちぎやうのボオドレエルにもかない。」

彼はしばらく梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。 ……

二  母

狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。 広い部屋はその為に一層憂欝に見えるらしかつた。 彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讃美歌をきつづけてゐた。 同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云ふよりもねまはつてゐた。

彼は血色のい医者と一しよにかう云ふ光景を眺めてゐた。 彼の母も十年前には少しも彼等と変らなかつた。 少しも、――彼は実際彼等の臭気に彼の母の臭気を感じた。

序章-章なし
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或阿呆の一生 - 情報

或阿呆の一生

あるあほうのいっしょう

文字数 12,272文字

著者リスト:

底本 現代日本文學大系 43 芥川龍之介集

青空情報


底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:細渕紀子
1998年4月23日公開
2005年12月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:或阿呆の一生

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