• URLをコピーしました!

乳房

著者:著者不明

ちぶさ - みやもと ゆりこ

文字数:27,652 底本発行年:1951
著者リスト:
著者宮本 百合子
0
0
0


序章-章なし

何か物音がする……何か音がしている……目ざめかけた意識をそこへ力の限りすがりかけて、ひろ子はくたびれた深い眠りの底から段々苦しく浮きあがって来た。

真暗闇の中に目をあけたが頭のうしろがしびれたようで、仰向きに寝た枕ごと体が急にグルリと一廻転したような気がした。 寝馴れた自分の部屋の中だのに、ひろ子は自分の頭がどっちを向いているか、突嗟とっさにはっきりしなかった。

眼をあけたまま耳を澄していると、音がしたのは夢ではなかった。 時々猫がトタンのひさしの上を歩いて大きい音を立てることがある、それとも違う、低い力のこもった物音が階下の台所のあたりでしている。

ひろ子は音を立てず布団をねのけ、裾の方にかけてある羽織へ手をとおしながら立ち上った。 染絣そめがすりの夜着の袖が重なるぐらいのところに、もう一人の同僚の保姆タミノが寝ている。 足さぐりで部屋の外へ出ようとして、ひろ子は思わずよろけた。

「なに?……あかりつけようか?」

タミノは半醒の若々しい眠さで舌のもつれるような声である。

「……待って……」

泥棒とも思えなかったが、ひろ子の気はゆるまなかった。 九月に市電の争議がはじまってから、この託児所も応援に参加し、古参の沢崎キンがつれて行かれてからは時ならぬ時に私服が来た。 何だ、返事がないから、空巣かと思ったよなどと、ぬけぬけ上り込まれてはかなわない。 ひろ子にはまた別の不安もあった。 家賃滞納で家主との間に悶着が起っていた。 御嶽山お百草。 そういう看板の横へ近頃新しく忠誠会第二支部という看板を下げた藤井は、こまかい家作をこの辺に持っていて、滞納のとれる見込みなしと見ると、ごろつきを雇って殴りこみをさせるので評判であった。 おどしでなく、本当に畳をはいで、借家人をたたき出した。

四五日前にもその藤井がここへやって来た。 藤井は角刈の素頭で、まがいもののラッコの衿をつけたインバネスの片袖を肩へはねあげ、糸目のたった襦子しゅす足袋の足を片組みにして、

「女ばっかりだって、そうそうつけ上って貰っちゃこっちの口が干上るからね。 ――のかれないというんなら、のけるようにしてのかす。 洋服なんぞ着た女に、ろくなのはありゃしねえ」

いかつい口を利きながら、眼は好色らしく光らせた。 スカートと柔かいジャケツの上から割烹着かっぽうぎをつけ、そこに膝ついているひろ子の体や、あっち向で何かしているタミノの無頓着な後つきをじろり、じろり眺めて、ねばって行った。 いやがらせでも始めたか。 畜生! という気もあって、ひろ子は六畳の小窓を急に荒っぽくあけて外を見おろした。

夜露に濡れたトタンが月に照らされている、平らに沈んだその光のひろがりが、ひろ子の目をとらえた。 見えないところで既に高く高くのぼっている月のくまない光は、夜霧にこめられたむこうの原ッぱの先まで水っぽく細かくきらめかせ、その煙るような軽い遠景をつい目の先によどませて、こわれた竹垣の端に歪んで立っている街燈が、その下にろがっている太い土管をボンヤリと照し出している。 夜霧にとけまじった月光と、赤黄く濁った電燈の色とは、そこで陰気な影を錯雑させている。

貧しく棟の低い界隈の夜は寝しずまっている。 ひろ子はそのまま雨戸をしめようとしたら、こっちの庇の下からいそいで男が姿を現した。 足より先にまず顔をと云いたげに体をはすっかいに運んで二階の窓を振仰ぎながら、手をふった。 細面の顔半面と着流しの肩に深夜の月は寒そうで、ひろ子は窓の奥から眼を見はったが、

「なアんだ!」

お前さんだったのかという声を出した。 それを合図に待っていたらしく、寝床に起き上っていたタミノが手をのばして、電燈をひねった。

序章-章なし
━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

乳房 - 情報

乳房

ちぶさ

文字数 27,652文字

著者リスト:

底本 宮本百合子全集 第五巻

親本 宮本百合子全集 第五巻

青空情報


底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第五巻」河出書房
   1951(昭和26)年5月発行
初出:「中央公論」
   1935(昭和10)年4月号
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年4月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:乳房

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!