乳房
著者:著者不明
ちぶさ - みやもと ゆりこ
文字数:27,652 底本発行年:1951
一
何か物音がする……何か音がしている……目ざめかけた意識をそこへ力の限り
真暗闇の中に目をあけたが頭のうしろが
眼をあけたまま耳を澄していると、音がしたのは夢ではなかった。
時々猫がトタンの
ひろ子は音を立てず布団を
「なに?……あかりつけようか?」
タミノは半醒の若々しい眠さで舌の
「……待って……」
泥棒とも思えなかったが、ひろ子の気はゆるまなかった。
九月に市電の争議がはじまってから、この託児所も応援に参加し、古参の沢崎キンがつれて行かれてからは時ならぬ時に私服が来た。
何だ、返事がないから、空巣かと思ったよなどと、ぬけぬけ上り込まれてはかなわない。
ひろ子にはまた別の不安もあった。
家賃滞納で家主との間に悶着が起っていた。
御嶽山お百草。
そういう看板の横へ近頃新しく忠誠会第二支部という看板を下げた藤井は、こまかい家作をこの辺に持っていて、滞納のとれる見込みなしと見ると、ごろつきを雇って殴りこみをさせるので評判であった。
四五日前にもその藤井がここへやって来た。
藤井は角刈の素頭で、まがいもののラッコの衿をつけたインバネスの片袖を肩へはねあげ、糸目のたった
「女ばっかりだって、そうそうつけ上って貰っちゃこっちの口が干上るからね。 ――のかれないというんなら、のけるようにしてのかす。 洋服なんぞ着た女に、ろくなのはありゃしねえ」
いかつい口を利きながら、眼は好色らしく光らせた。
スカートと柔かいジャケツの上から
夜露に濡れたトタンが月に照らされている、平らに沈んだその光のひろがりが、ひろ子の目をとらえた。
見えないところで既に高く高くのぼっている月の
貧しく棟の低い界隈の夜は寝しずまっている。
ひろ子はそのまま雨戸をしめようとしたら、こっちの庇の下からいそいで男が姿を現した。
足より先にまず顔をと云いたげに体を
「なアんだ!」
お前さんだったのかという声を出した。 それを合図に待っていたらしく、寝床に起き上っていたタミノが手をのばして、電燈をひねった。