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墨汁一滴

著者:正岡子規

ぼくじゅういってき - まさおか しき

文字数:75,868 底本発行年:1927
著者リスト:
著者正岡 子規
底本: 墨汁一滴
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序章-章なし

病める枕辺まくらべに巻紙状袋じょうぶくろなど入れたる箱あり、その上に寒暖計を置けり。 その寒暖計に小き輪飾わかざりをくくりつけたるは病中いささか新年をことほぐの心ながら歯朶しだの枝の左右にひろごりたるさまもいとめでたし。 その下にだいだいを置き橙に並びてそれと同じ大きさほどの地球儀をゑたり。 この地球儀は二十世紀の年玉なりとて鼠骨そこつの贈りくれたるなり。 直径三寸の地球をつくづくと見てあればいささかながら日本の国も特別に赤くそめられてあり。 台湾の下には新日本と記したり。 朝鮮満洲吉林きつりん黒竜江こくりゅうこうなどは紫色の内にあれど北京とも天津とも書きたる処なきは余りに心細き思ひせらる。 二十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何いかに変りてあらんか、そは二十世紀はじめの地球儀の知る所にあらず。 とにかくに状袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、これ我が病室の蓬莱ほうらいなり。

枕べの寒さばかりに新年の年ほぎ縄を掛けてほぐかも

(一月十六日)

一月七日の会にふもとのもてしつとこそいとやさしく興あるものなれ。 長き手つけたる竹のかごの小く浅きに木の葉にやあらん敷きなして土を盛り七草をいささかばかりづつぞ植ゑたる。 一草ごとに三、四寸ばかりの札を立て添へたり。 正面に亀野座かめのざといふ札あるはすみれごとき草なり。 こはほとけとあるべきを縁喜物えんぎものなれば仏の字を忌みたる植木師のわざなるべし。 その左に五行ごぎょうとあるは厚き細長き葉のやや白みを帯びたる、こは春になれば黄なる花の咲く草なり、これら皆寸にも足らず。 その後に植ゑたるには田平子たびらこの札あり。 はこべらの事か。 真後まうしろせりなずなとあり。 薺は二寸ばかりも伸びてはやつぼみのふふみたるもゆかし。 右側に植ゑて鈴菜すずなとあるはたけ三寸ばかり小松菜のたぐひならん。 真中に鈴白すずしろの札立てたるは葉五、六寸ばかりの赤蕪あかかぶらにてくれないの根を半ば土の上にあらはしたるさまことにきはだちて目もさめなん心地する。 源語げんご』『枕草子まくらのそうし』などにもあるべきおもむきなりかし。

あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑてし病めるわがため

(一月十七日)

この頃根岸倶楽部クラブより出版せられたる根岸の地図は大槻おおつき博士の製作にかかり、地理の細精さいせいに考証の確実なるのみならずわれら根岸人に取りてはいと面白く趣ある者なり。 我らの住みたる処は今うぐいす横町といへど昔はたぬき横町といへりとぞ。

田舎路はまがりくねりておとづるる人のたづねわぶること吾が根岸のみかは、抱一ほういつが句に「山茶花さざんかや根岸はおなじ垣つゞき」また「さゞん花や根岸たづぬる革ふばこ」また一種の風趣ふうしゅならずや、さるに今は名物なりし山茶花かんちくの生垣もほとほとその影をとどめず今めかしき石煉瓦れんがの垣さへ作り出でられ名ある樹木はこじ去られいにしへの奥州路おうしゅうじの地蔵などもてはやされしも取りのけられ鶯の巣は鉄道のひびきにゆりおとされ※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)くいなの声も汽笛にたたきつぶされ、およそ風致といふ風致は次第に失せてただ細路のくねりたるのみぞ昔のままなり云々うんぬん

と博士はしるせり。 中にも鶯横町はくねり曲りて殊に分りにくき処なるに尋ね迷ひてむなしく帰る俗客もあるべしかし。 (一月十八日)

蕪村ぶそん天明てんめい三年十二月二十四日に歿したれば節季せっきの混雑の中にこの世を去りたるなり。 しかるにこの忌日きじつを太陽暦に引き直せば西洋紀元千七百八十四年一月十六日金曜日に当るとぞ。 即ち翌年の始に歿したる事となるなり。 (一月二十日)

伊勢山田の商人あきんど勾玉こうぎょくより小包送りこしけるを開き見ればくさぐさの品をそろへて目録一枚添へたり。

祈平癒呈へいゆをいのりてていす

御両宮之真境(古版)              二

序章-章なし
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墨汁一滴 - 情報

墨汁一滴

ぼくじゅういってき

文字数 75,868文字

著者リスト:
著者正岡 子規

底本 墨汁一滴

青空情報


底本:「墨汁一滴」岩波文庫、岩波書店
   1927(昭和2)年12月15日第1刷発行
   1984(昭和59)年3月16日第15刷改版発行
   1998(平成10)年1月5日第35刷発行
※文意を保つ上で必要と判断した箇所では、JIS X 0208の包摂規準を適用せず、以下のように外字注記しました。
「麻」→「麾−毛」
「摩」→「「麾」の「毛」に代えて「手」」
「磨」→「「麾」の「毛」に代えて「石」」
「魔」→「「麾」の「毛」に代えて「鬼」」
「兎」→「「兎」の「儿」を「兔」のそれのように」
「免」→「「免」の「儿」を「兔」のそれのように」
「塚」→「「土へん+冢」、第3水準1-15-55」
「全」→「入/王」
「愈」→「兪/心」
「祇」→「示+氏」
「逸」→「「二点しんにょう+兔」、第3水準1-92-57」
「寛」→「「寛の「儿」を「兔」のそれのように、第3水準1-47-58」
「内」→「「内」の「人」に代えて「入」」
「聖」→「「聖」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの」
「閏」→「門<壬」
「蝋」→「「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71」
「頼」→「「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26」
「瀬」→「「さんずい+懶のつくり」、第3水準1-87-30」
「姫」→「女+」
「負」→「刀/貝」
「壬」→「「壬」の下の横棒が長いもの」
「呈」→「「呈」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの」
「望」→「「望」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの」
※「産」は、底本中三月八日付本文「元明(げんみん)より産の字に作り字典は薩としあるなり唐には決して産に書せず云々」に用いられた二箇所でのみ、「立」が交差する、「顏」の当該箇所の形につくってありました。その他の本文ではすべて、交差しない字体が使われています。これらは意図的に使い分けられた可能性がありますが、外字注記をせずとも文意を損なうことはないと判断し、「産」で入力しました。
※「読みにくい語、読み誤りやすい語には現代仮名づかいで振り仮名を付す。」との方針による底本のルビを、拗音、促音は小書きして入力しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※二行にわたる始め波括弧は、けい線素片の組み合わせに置き換えました。
入力:山口美佐
校正:川向直樹
2005年6月13日作成
2005年11月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:墨汁一滴

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