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新版 放浪記

著者:林芙美子

しんぱん ほうろうき - はやし ふみこ

文字数:245,199 底本発行年:1955
著者リスト:
著者林 芙美子
底本: 新版 放浪記
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序章-章なし

第一部

[#改ページ]

放浪記以前

私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。

更けゆく秋の夜 旅の空の

わびしき思いに 一人なやむ

恋いしや古里 なつかし父母

私は宿命的に放浪者である。 私は古里を持たない。 父は四国の伊予の人間で、太物ふとものの行商人であった。 母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。 母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云うところであった。 私が生れたのはその下関の町である。 ――故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。 それ故、宿命的に旅人たびびとである私は、この恋いしや古里の歌を、随分侘しい気持ちで習ったものであった。 ――八つの時、私の幼い人生にも、暴風が吹きつけてきたのだ。 若松で、呉服物の糶売せりうりをして、かなりの財産をつくっていた父は、長崎の沖の天草あまくさから逃げて来た浜と云う芸者を家に入れていた。 雪の降る旧正月を最後として、私の母は、八つの私を連れて父の家を出てしまったのだ。 若松と云うところは、渡し船に乗らなければ行けないところだと覚えている。

今の私の父は養父である。 このひとは岡山の人間で、実直過ぎるほどの小心さと、アブノーマルな山ッ気とで、人生の半分は苦労で埋れていた人だ。 私は母の連れ子になって、この父と一緒になると、ほとんど住家と云うものを持たないで暮して来た。 どこへ行っても木賃宿きちんやどばかりの生活だった。 「お父つぁんは、家を好かんとじゃ、道具が好かんとじゃ……」母は私にいつもこんなことを云っていた。 そこで、人生いたるところ木賃宿ばかりの思い出を持って、私は美しい山河も知らないで、義父と母に連れられて、九州一円を転々と行商をしてまわっていたのである。 私がはじめて小学校へはいったのは長崎であった。 ざっこく屋と云う木賃宿から、その頃流行のモスリンの改良服と云うのをきせられて、南京ナンキン町近くの小学校へ通って行った。 それを振り出しにして、佐世保、久留米、下関、門司、戸畑、折尾おりおと言った順に、四年の間に、七度も学校をかわって、私には親しい友達が一人も出来なかった。

「お父つぁん、俺アもう、学校さ行きとうなかバイ……」

せっぱつまった思いで、私は小学校をやめてしまったのだ。 私は学校へ行くのがいやになっていたのだ。 それは丁度、直方のうがたの炭坑町に住んでいた私の十二の時であったろう。 「ふうちゃんにも、何か売らせましょうたいなあ……」遊ばせてはモッタイナイ年頃であった。 私は学校をやめて行商をするようになったのだ。

直方の町は明けても暮れてもすすけて暗い空であった。 砂でした鉄分の多い水で舌がよれるような町であった。 大正町の馬屋と云う木賃宿に落ちついたのが七月で、父達は相変らず、私を宿に置きっぱなしにすると、荷車を借りて、メリヤス類、足袋、新モス、腹巻、そういった物を行李こうりに入れて、母が後押しで炭坑や陶器製造所へ行商に行っていた。

私には初めての見知らぬ土地であった。 私は三銭の小遣いを貰い、それを兵児帯へこおびに巻いて、毎日町に遊びに出ていた。

序章-章なし
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新版 放浪記 - 情報

新版 放浪記

しんぱん ほうろうき

文字数 245,199文字

著者リスト:
著者林 芙美子

底本 新版 放浪記

親本 林芙美子作品集第一巻

青空情報


底本:「新版 放浪記」新潮文庫、新潮社
   1979(昭和54)年9月30日初版発行
   1983(昭和58)年7月30日9刷
底本の親本:「林芙美子作品集第一巻」新潮社
   1955(昭和30)年12月初版発行
初出:「女人藝術」
   1928(昭和3)年10月号〜1930(昭和5)年10月号
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2-67)と「≫」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。
入力:任天堂株式会社
校正:松永正敏
2008年6月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:新版 放浪記

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