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あの頃の自分の事

著者:芥川龍之介

あのころのじぶんのこと - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:15,681 底本発行年:1968
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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序章-章なし

以下は小説と呼ぶ種類のものではないかも知れない。 さうかと云つて、何と呼ぶべきかは自分も亦不案内である。 自分は唯、四五年前の自分とその周囲とを、出来る丈こだはらずに、ありのまま書いて見た。 従つて自分、或は自分たちの生活やその心もちに興味のない読者には、面白くあるまいと云ふ懸念けねんもある。 が、この懸念はそれを押しつめて行けば、結局どの小説も同じ事だから、そこに意を安んじて、発表する事にした。 ついでながらありのままと云つても、事実の配列は必しもありのままではない。 唯事実そのものだけが、大抵ありのままだと云ふ事をつけ加へて置く。

十一月の或晴れた朝である。 久しぶりに窮屈な制服を着て、学校へ行つたら、正門前でやはり制服を着た成瀬につた。 こつちで「やあ」と云ふと、向うでも「やあ」と云つた。 一しよに角帽を並べて、法文科の古い煉瓦造れんぐわづくりの中へはいつたら、玄関の掲示場の前に、又和服の松岡がゐた。 我々はもう一度「やあ」と云つた。

立ちながら三人で、近々出さうとしてゐる同人雑誌『新思潮』の話をした。 それから松岡がこの間、珍しく学校へ出て来て、西洋哲学史か何かの教室へはいつたが、何時いつまで待つても、先生は勿論学生も来る容子ようすがない。 妙だと思つて、外へ出て小使にいて見たら、休日だつたと云ふ話をした。 彼は電車へ乗る心算つもりで、十銭持つて歩きながら、途中で気が変つて、煙草屋へはいると、平然として「往復を一つ」と云つた人間だからこんな事は家常茶飯である。 そのうちに、傴僂せむしのやうな小使が朝の時間を知らせる鐘を振つて、大急ぎで玄関を通りすぎた。

朝の時間はもう故人になつたロオレンス先生のマクベスの講義である。 松岡と分れて、成瀬と二階の教室へ行くと、もう大ぜい学生が集つて、ノオトを読み合せたり、むだ話をしたりしてゐた。 我々も隅の方の机に就いて、新思潮へ書かうとしてゐる我々の小説の話をした。 我々の頭の上の壁には、禁煙と云ふ札が貼つてあつた。 が、我々は話しながら、ポケツトから敷島を出して吸ひ始めた。 勿論我々の外の学生も、平気で煙草をふかしてゐた。 すると急にロオレンス先生が、鞄をかかへて、はいつて来た。 自分は敷島を一本完全に吸つてしまつて、殻も窓からすてた後だつたから、更に恐れる所なく、ノオトを開いた。 しかし成瀬はまだ煙草をくはへてゐたから、すぐにそれを下へ捨てると、あわてて靴で踏み消した。 さいはひ、ロオレンス先生は我々の机の間から立昇る、縷々るるとした一条の煙に気がつかなかつた。 だから出席簿をつけてしまふと、早速毎時いつもの通り講義にとりかかつた。

講義のつまらない事は、当時定評があつた。 が、その朝は殊につまらなかつた。 始からのべつ幕なしに、梗概かうがいばかり聴かされる。 それも一々 Act 1, Scene 2 と云ふ調子で、一くさりづつやるのだから、その退屈さは人間以上だつた。 自分は以前はかう云ふ時に、よく何の因果で大学へなんぞはいつたんだらうと思ひ思ひした。 が、今ではそんな事も考へない程、この非凡な講義を聴く可く余儀なくされた運命に、すつかり黙従し切つてゐた。 だからその時間も、機械的にペンを動かして、帝劇の筋書の英訳のやうなものを根気よく筆記した。 が、その中に教室に通つてゐるステイイムの加減で、だんだん眠くなつて来た。 そこで勿論、眠る事にした。

うとうとして、ノオトに一頁ばかりブランクが出来た時分、ロオレンス先生が、何だか異様な声を出したので、眼がさめた。

序章-章なし
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あの頃の自分の事 - 情報

あの頃の自分の事

あのころのじぶんのこと

文字数 15,681文字

著者リスト:

底本 現代日本文學大系 43 芥川龍之介集

青空情報


底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:小浜真由美
1998年6月22日公開
2005年11月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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