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馬の脚

著者:芥川龍之介

うまのあし - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:10,926 底本発行年:1971
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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序章-章なし

この話の主人公は忍野半三郎おしのはんざぶろうと言う男である。 生憎あいにく大した男ではない。 北京ペキン三菱みつびしに勤めている三十前後の会社員である。 半三郎は商科大学を卒業したのち二月目ふたつきめに北京へ来ることになった。 同僚どうりょう上役うわやくの評判は格別いと言うほどではない。 しかしまた悪いと言うほどでもない。 まず平々凡々たることは半三郎の風采ふうさいの通りである。 もう一つ次手ついでにつけ加えれば、半三郎の家庭生活の通りである。

半三郎は二年前にある令嬢と結婚した。 令嬢の名前は常子つねこである。 これも生憎あいにく恋愛結婚ではない。 ある親戚の老人夫婦に仲人なこうどを頼んだ媒妁ばいしゃく結婚である。 常子は美人と言うほどではない。 もっともまた醜婦しゅうふと言うほどでもない。 ただまるまるふとったほおにいつも微笑びしょうを浮かべている。 奉天ほうてんから北京ペキンへ来る途中、寝台車の南京虫なんきんむしされた時のほかはいつも微笑を浮かべている。 しかももう今は南京虫に二度とされる心配はない。 それは××胡同ことうの社宅の居間いま蝙蝠印こうもりじるし除虫菊じょちゅうぎく二缶ふたかん、ちゃんと具えつけてあるからである。

わたしは半三郎の家庭生活は平々凡々を極めていると言った。 実際その通りに違いない。 彼はただ常子と一しょに飯を食ったり、蓄音機ちくおんきをかけたり、活動写真を見に行ったり、――あらゆる北京中ペキンじゅうの会社員と変りのない生活をいとなんでいる。 しかし彼等の生活も運命の支配にれるわけにはかない。 運命はある真昼の午後、この平々凡々たる家庭生活の単調を一撃のもとにうちくだいた。 三菱みつびし会社員忍野半三郎は脳溢血のういっけつのために頓死とんししたのである。

半三郎はやはりその午後にも東単牌楼トンタヌピイロオの社の机にせっせと書類を調べていた。 机を向かい合わせた同僚にも格別異状などは見えなかったそうである。 が、一段落ついたと見え、巻煙草まきたばこを口へくわえたまま、マッチをすろうとする拍子ひょうしに突然俯伏うつぶしになって死んでしまった。 いかにもあっけない死にかたである。 しかし世間は幸いにも死にかたには余り批評をしない。 批評をするのは生きかただけである。 半三郎もそのために格別非難を招かずにすんだ。 いや、非難どころではない。 上役うわやくや同僚は未亡人びぼうじん常子にいずれも深い同情をひょうした。

同仁どうじん病院長山井博士やまいはかせ診断しんだんに従えば、半三郎の死因は脳溢血のういっけつである。 が、半三郎自身は不幸にも脳溢血とは思っていない。 第一死んだとも思っていない。 ただいつか見たことのない事務室へ来たのに驚いている。 ――

事務室の窓かけは日の光の中にゆっくりと風に吹かれている。

序章-章なし
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馬の脚 - 情報

馬の脚

うまのあし

文字数 10,926文字

著者リスト:

底本 芥川龍之介全集5

親本 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集

青空情報


底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月5日公開
2004年3月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:馬の脚

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