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それから

著者:夏目漱石

それから - なつめ そうせき

文字数:169,925 底本発行年:1994
著者リスト:
著者夏目 漱石
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一の一

だれあはたゞしく門前もんぜんけて行く足音あしおとがした時、代助だいすけあたまなかには、大きな俎下駄まないたげたくうから、ぶらさがつてゐた。 けれども、そのまないた下駄は、足音あしおと遠退とほのくに従つて、すうとあたまからして消えて仕舞つた。 さうしてが覚めた。

枕元まくらもとを見ると、八重の椿つばき一輪いちりんたゝみの上に落ちてゐる。 代助だいすけ昨夕ゆふべとこなかで慥かに此花の落ちるおとを聞いた。 彼の耳には、それが護謨毬ごむまりを天井裏から投げ付けた程に響いた。 夜がけて、四隣あたりが静かな所為せゐかとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、あばらのはづれにたゞしくあたおとたしかめながらねむりに就いた。

ぼんやりして、少時しばらく、赤ん坊のあたま程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手をてゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。 寐ながら胸のみやくいて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。 動悸は相変らず落ち付いてたしかに打つてゐた。 彼は胸に手をてた儘、此鼓動の下に、あたたかいくれなゐの血潮の緩く流れるさまを想像して見た。 是がいのちであると考へた。 自分は今流れるいのちてのひらで抑へてゐるんだと考へた。 それから、此てのひらこたへる、時計の針に似たひゞきは、自分をいざなふ警鐘の様なものであると考へた。 此警鐘を聞くことなしにきてゐられたなら、――血をふくろが、ときふくろの用を兼ねなかつたなら、如何いかに自分は気楽だらう。 如何に自分は絶対にせいを味はひ得るだらう。 けれども――代助だいすけは覚えずぞつとした。 彼は血潮ちしほによつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、きたがる男である。 彼は時々とき/″\ながら、左のちゝしたに手を置いて、もし、此所こゝ鉄槌かなづちで一つどやされたならと思ふ事がある。 彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。

彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。 夜具のなかから両手をして、大きく左右にひらくと、左側ひだりがはに男が女をつてゐる絵があつた。 彼はすぐほかページを移した。 其所そこには学校騒動が大きな活字で出てゐる。 代助は、しばらく、それを読んでゐたが、やがて、惓怠だるさうな手から、はたりと新聞を夜具のうへに落した。 夫から烟草を一本かしながら、五寸許り布団をり出して、畳の上の椿つばきを取つて、引つかへして、鼻の先へつてた。 くち口髭くちひげと鼻の大部分が全くかくれた。 烟りは椿つばきはなびらずいからまつてたゞよふ程濃く出た。 それをしろ敷布しきふうへに置くと、立ちがつて風呂場ふろばへ行つた。

其所そこ叮嚀ていねいみがいた。 かれ歯並はならびいのを常に嬉しく思つてゐる。 はだいで綺麗きれいむね摩擦まさつした。 かれ皮膚ひふにはこまやかな一種の光沢つやがある。 香油をり込んだあとを、よく拭きつた様に、かたうごかしたり、うでげたりするたびに、局所きよくしよ脂肪しぼううすみなぎつて見える。 かれはそれにも満足である。 次に黒いかみけた。 あぶらけないでも面白い程自由になる。 ひげかみ同様にほそく且つ初々うい/\しく、くちうへを品よく蔽ふてゐる。 代助だいすけは其ふつくらしたほゝを、両手で両三度撫でながら、鏡のまへにわがかほうつしてゐた。

一の一

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それから - 情報

それから

それから

文字数 169,925文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 漱石全集 第六巻

青空情報


底本:「漱石全集 第六巻」岩波書店
   1994(平成6)年5月9日発行
初出:「東京朝日新聞」、「大阪朝日新聞」
   1909(明治42)年6月27日〜10月4日
※底本の本文は、漱石の自筆原稿によっています。
※ルビは、漱石の原稿にあったルビのみ付け、岩波編集部が付けたルビは省きました。
※ルビ、文字遣い、語句の混在は底本の通りとしました。
入力:Godot、野口英司、oto
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年4月16日作成
2013年3月13日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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