• URLをコピーしました!

著者:長塚節

つち - ながつか たかし

文字数:226,695 底本発行年:1912
著者リスト:
著者長塚 節
親本:
0
0
0


「土」に就て

漱石

「土」が「東京朝日」に連載されたのは一昨年の事である。 さうして其責任者は余であつた。 所が不幸にも余は「土」の完結を見ないうちに病氣に罹つて、新聞を手にする自由を失つたぎり、又「土」の作者を思ひ出す機會を有たなかつた。

當初五六十囘の豫定であつた「土」は、同時に意外の長篇として發達してゐた。 途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な區切から改めて讀み出す勇氣を鼓舞しにくかつたので、つい夫ぎりに打ちつたやうなものゝ、腹のなかでは私かに作者の根氣と精力に驚ろいてゐた。 「土」は何でも百五六十囘に至つて漸く結末に達したのである。

冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」の事を忘れてゐた。 所がある時此間亡くなつた池邊君に會つて偶然話頭が小説に及んだ折、池邊君は何故「土」は出版にならないのだらうと云つて、大分長塚君の作を褒めてゐた。 池邊君は其當時「朝日」の主筆だつたので「土」は始から仕舞迄眼を通したのである。 其上池邊君は自分で文學を知らないと云ひながら、其實摯實な批評眼をもつて「土」を根氣よく讀み通したのである。 余は出版界の不景氣のために「土」の單行本が出る時機がまだ來ないのだらうと答へて置いた。 其時心のうちでは、隨分「土」に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出來るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の爲に好からうと思つたが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」の事を丸で忘れて仕舞つた。

すると此春になつて長塚君が突然尋ねて來て、漸く本屋が「土」を引受ける事になつたから、序を書いて呉れまいかといふ依頼である。 余は其時自分の小説を毎日一囘づゝ書いてゐたので、「土」を讀み返す暇がなかつた。 已を得ず自分の仕事が濟む迄待つてくれと答へた。 すると長塚君は池邊君の序も欲しいから序でに紹介して貰ひたいと云ふので、余はすぐ承知した。 余の名刺を持つて「土」の作者が池邊君の玄關に立つたのは、池邊君の母堂が死んで丁度三十五日に相當する日とかで、長塚君はたゞ立ちながら用事丈を頼んで歸つたさうであるが、それから三日して肝心の池邊君も突然亡くなつて仕舞つたから、同君の序はとう/\手に入らなかつたのである。

余は「彼岸過迄」を片付けるや否や前約を踏んで「土」の校正刷を讀み出した。 思つたよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰しにして漸く業を卒へて考へて見ると、中々骨の折れた作物である。 余は元來が安價な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」に於ても全くさうであつた。 先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものでないと思つた。 次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだらうと物色して見た。 すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。

尤も誰にも書けないと云ふのは、文を遣る技倆の點や、人間を活躍させる天賦の力を指すのではない。 もし夫れ丈の意味で誰も長塚君に及ばないといふなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を擔ぎ過ぎる策略とも取れて、何方にしても作者の迷惑になる計である。 余の誰も及ばないといふのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上つてゐないといふ意味なのである。

「土」の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。 教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。 先祖以來茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多數の小作人を使用する長塚君は、彼等の獸類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此「土」の中に收め盡したのである。 彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上りがたい所を、あり/\と眼に映るやうに描寫したのが「土」である。 さうして「土」は長塚君以外に何人も手を著けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獸類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云ふのである。

人事を離れた天然に就いても、前同樣の批評を如何な讀者も容易に肯はなければ濟まぬ程、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究してゐる。 畠のもの、畔に立つ榛の木、蛙の聲、鳥の音、苟くも彼の郷土に存在する自然なら、一點一畫の微に至る迄悉く其地方の特色を具へて叙述の筆に上つてゐる。 だから何處に何う出て來ても必ず獨特ユニークである。 獨特ユニークな點を、普通の作家の手に成つた自然の描寫の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないといふのである。 余は彼の獨特ユニークなのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞ふ失敗を歎じた位、彼は精緻な自然の觀察者である。

作としての「土」は、寧ろ苦しい讀みものである。 決して面白いから讀めとは云ひ惡い。

「土」に就て

━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

土 - 情報

つち

文字数 226,695文字

著者リスト:
著者長塚 節

底本 長塚節名作選 一

親本

青空情報


底本:「長塚節名作選 一」春陽堂書店
   1987(昭和62)年8月20日発行
底本の親本:「土」春陽堂
   1912(明治45)年5月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※『管(かま)あこたあ有(あ)んめえな」勘次(かんじ)はおつたが』は底本では『管(かま)あこたあ有(あ)んめえな勘次(かんじ)はおつ」たが』となっていますが、底本に付されていた正誤表によって改めました。
※ルビ抜けは底本通りにしました。
※底本には数多くの誤植が疑われる箇所や、新字・旧字の混在がありますが、編集者の方針「初版本を底本とし、長塚家所蔵の新聞切り抜きにある修訂本文をもって校合した。」を尊重し、ファイル作成にあたっては、上記編集部の正誤表による修正以外は、完全に底本通りとしました。また校異の類も一切付けませんでした。
なお、仮名遣いや新字・旧字の混在(「わらぢ」と「わらじ」、「のつくり」)" class="gaiji" />」と「姉」等)以外で誤植を疑った箇所は以下の通りです。1912(明治45)年5月15日春陽堂発行の「土」(参照したのは1974(昭和49)年1月1日近代文学館発行の復刻本)では「【】」の中の矢印の後ろの形になっていました。
○p13-12自分(じふん)の【じふん→じぶん】 ○p16-14遺(や)つた。【遺→遣】 ○p17-13頻(ほゝ)【頻→頬】 ○p24-7灸(あぶ)つて【灸→炙】 ○p27-15遙(はろか)に【はろか→はるか】 ○p27-15手拭(てねぐひ)【てねぐひ→てぬぐひ】 ○p28-1村(なら)【なら→むら】 ○p31-14おうつ【→おつう】 ○p35-11擔(かつ)いて【いて→いで】 ○p38-11地(ち)べた【ち→ぢ】 ○p44-4喰(そ)の【喰→其】 ○p44-9釘附(くきづけ)【くき→くぎ】 ○p49-10喚(よ)んた【た→だ】 ○p50-12取(と)り取(あへ)ず【取(あへ)→敢(あへ)】 ○p57-1死(し)んちまあなんて【ち→ぢ】 ○p60-13音信(おどづれ)【ど→と】 ○p62-7ばんやりとして【ば→ぼ】 ○p81-5一且(たん)【且→旦】 ○p95-15冬懇(ふゆばり)【懇→墾】 ○p102-13峙(そばた)てゝ【そばた→そばだ】 ○p106-15逡巡(ぐつ/\)【ぐつ→ぐづ】 ○p119-8上(のば)つたのである。【ば→ぼ】 ○p123-5一方(ぼう)には【ばう→ぱう】 ○p125-1暮(あつ)い【暮→暑】 ○p138-11到頭(たう/\)【たう/\→たうとう】 ○p157-3有繋(まさが)【まさが→まさか】 ○p157-8積(つむり)【つむり→つもり】 ○p157-14何(なん)だが【だが→だか】 ○p162-1、p162-2破壤(はくわい)【壤→壞】 ○p162-4快(こゝよ)よい【こゝよ→こゝろ】 ○p164-14猶旦(やつぱり)【旦→且】 ○p166-4默託(もくきよ)【託→許】 ○p171-2、p193-11、p203-10次(つき)【つき→つぎ】 ○p172-7(もき)らせる【もき→もぎ】 ○p174-1簟笥(たんす)【簟→箪】 ○p175-7氣遺(きづか)ふ【遺→遣】 ○p176-13、p187-2、p221-7五月繩(うるさ)い【繩→蠅】 ○p178-1そつちからもこつらからも【こつら→こつち】 ○p182-3沒(く)まれた。【沒→汲】 ○p183-2掛(かけ)けた。【(かけ)→(か)】 ○p185-13出(て)たがんだから【(て)→(で)】 ○p192-15忌々敷(いま/\しく)くても【(いま/\しく)→(いま/\し)】 ○p195-1、p195-3麥(むき)【き→ぎ】 ○p195-3跟(あと)【跟→趾】 ○p195-10限(かき)り【かき→かぎ】 ○p203-13幾抔(いくはい)【抔→杯】 ○p207-9狗(いね)ころ【ね→ぬ】 ○p217-3有撃(まさか)【撃→繋】 ○p225-1三度(と)【と→ど】 ○p225-11句切(くきり)【き→ぎ】 ○p226-10拂(か)けて【拂→掛】 ○p227-9手拭(てぬげ)【ぬ→ね】 ○p229-10、p229-12檐(かつ)いで【檐→擔】 ○p237-4、p239-14僂痲質斯(レウマチス)【痲→麻】 ○p248-1書藉(しよせき)【藉→籍】 ○p253-7冷(ひやゝ)が【が→か】 ○p255-5壤(こは)れた【壤→壞】 ○p256-1睡(つば)【睡→唾】 ○p267-2膳(つくろ)つて【膳→繕】 ○p269-8氣藥(きらく)【藥→樂】 ○p269-14懷(いど)いては【いど→いだ】 ○p274-2陸(むつ)まじ相【陸→睦】 ○p275-8調子(てうし)て【》て→》で】 ○p277-1始終(しじゆ)【しじゆ→しじう】 ○p293-10動(うが)かないので【うが→うご】 ○p295-13崩壤(ほうくわい)【壤→壞】 ○p301-12成(なつ)つた【(なつ)→(な)】 ○p302-2小(すこ)し【小→少】 ○p310-9洪水後(こうずゐじ)【じ→ご】 ○p312-1終(た)えず【終→絶】 ○p312-9仕(あ)る【仕→在】 ○p316-9鳴咽(をえつ)【鳴→嗚】 ○p325-10加(い)い加減【加(い)→好(い)】 ○p326-11空(むね)しく【むね→むな】 ○p327-10一齊(もい)に【もい→せい】 ○p340-3惚菜(そうざい)【惚→惣】 ○p341-8長(は)つた【長→張】 ○p344-8俺(おほ)うた。【俺→掩】 ○p344-11訓(な)れて【訓→馴】 ○p350-10氣日(まいんち)【氣→毎】 ○p350-13威勢(ゐぜい)【ゐぜい→ゐせい】 ○p351-6崇(とつつか)れ【崇→祟】 ○p354-14輸※(かちまけ)[#「羸」の「羊」に代えて「果」、354-14]【[#「羸」の「羊」に代えて「果」]→贏】 ○p355-2女房(はようばう)【は→に】 ○p357-5口(たゞ)獨(ひと)りで【口→只】 ○p358-14措(を)しがる【措→惜】 ○p371-4沿(あ)びせる、p378-14沿(あ)びた【沿→浴】 ○p374-13蹲裾(うづくま)つた。【裾→踞】 ○p375-2火箸(ひばし)の光(さき)で【光→先】 ○p375-3深(さが)して【深→探】 ○p382-2掩(お)うて【お→おほ】 ○p385-4丈夫(ちやうぶ)な【ち→ぢ】 ○p387-1掻(か)つ拂(ば)かう【ば→ぱ】 ○p395-7乞食野郎奴(こちきやらうめ)【ち→じ】 ○p405-7彼(つか)れて【彼→疲】 ○p407-14作日等(きのふら)【作→昨】 ○p408-1覺(おべ)えてからだつで【だつで→だつて】 ○p414-9佛曉(あけがた)【佛→拂】
入力:町野修三
校正:小林繁雄
2004年11月7日作成
2014年6月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!