• URLをコピーしました!

光と風と夢

著者:中島敦

ひかりとかぜとゆめ - なかじま あつし

文字数:78,485 底本発行年:1976
著者リスト:
著者中島 敦
0
0
0


一八八四年五月の或夜遅く、三十五歳のロバァト・ルゥイス・スティヴンスンは、南仏イエールの客舎で、突然、ひどい喀血かっけつに襲われた。 駈付けた妻に向って、彼は紙切に鉛筆でう書いて見せた。 「恐れることはない。 之が死なら、楽なものだ。」 血が口中をふさいで、口が利けなかったのである。

爾来じらい、彼は健康地を求めて転々しなければならなくなった。 南英の保養地ボーンマスでの三年の後、コロラドを試みては、という医者の言葉に従って、大西洋を渡った。 米国も思わしくなく、今度は南洋行が試みられた。 七十トン縦帆船スクーナーは、マルケサス・パウモツ・タヒティ・ハワイ・ギルバァトを経て一年半に亘る巡航の後、一八八九年の終にサモアのアピア港に着いた。 海上の生活は快適で、島々の気候は申分なかった。 自ら「咳と骨に過ぎない」というスティヴンスンの身体も、先ず小康を保つことが出来た。 彼は此処で住んで見る気になり、アピア市外に四百エーカーばかりの土地を買入れた。 勿論、まだ此処で一生を終えようなどと考えていた訳ではない。 現に、翌年の二月、買入れた土地の開墾や建築を暫く人手にゆだねて、自分はシドニー迄出掛けて行った。 其処で便船を待合せて、一旦英国に帰るつもりだったのである。

しかし、彼は、やがて、在英の一友人に宛てて次の様な手紙を書かねばならなかった。 「……実をいえば、私は、最早一度しか英国に帰ることはないだろうと思っている。 そして其の一度とは、死ぬ時であろう。 熱帯に於てのみ私はわずかに健康なのだ。 亜熱帯の此処(ニュー・カレドニア)でさえ、私は直ぐに風邪を引く。 シドニーでは到頭喀血をやって了った。 霧の深い英国へ帰るなど、今は思いも寄らぬ。 ……私は悲しんでいるだろうか? 英国にいる七・八人、米国にいる一人二人の友人と会えなくなること、それが辛いだけだ。 それを別にすれば、むしろサモアの方が好ましい。 海と島々と土人達と、島の生活と気候とが、私を本当に幸福にして呉れるだろう。 私は此の流謫るたくを決して不幸とは考えない……。」

その年の十一月、彼はようやく健康を取戻してサモアに帰った。 彼の買入地には、土人の大工の作った仮小舎が出来ていた。 本建築は白人大工でなければ出来ないのである。 それが出来上るまで、スティヴンスンと彼の妻ファニイとは仮小舎に寝起し、自ら土人達を監督して開墾に当った[#「当った」は底本では「当つた」] 其処はアピア市の南方三マイル、休火山ヴァエアの山腹で、五つの渓流と三つの瀑布ばくふと、その他幾つかの峡谷断崖を含む・六百フィートから千三百呎に亘る高さの台地である。 土人は此の地をヴァイリマと呼んだ。 五つの川の意である。 鬱蒼うっそうたる熱帯林や渺茫びょうぼうたる南太平洋の眺望をもつ斯うした土地に、自分の力で一つ一つ生活の礎石を築いて行くのは、スティヴンスンにとって、子供の時の箱庭遊に似た純粋な歓びであった。 自分の生活が自分の手によって最も直接に支えられていることの意識――その敷地に自分が一杙ひとくい打込んだ家に住み、自分がのこぎりをもって其の製造の手伝をした椅子に掛け、自分がくわを入れた畠の野菜や果実を何時も喰べていること――之は、幼時始めて自力で作上げた手工品を卓子テーブルの上に置いて眺めた時の・新鮮な自尊心をよみがえらせて呉れる。 此の小舎を組立てている丸木や板も、又、日々の食物も、みんな素性の知れたものであること――つまり、其等の木はことごとく自分の山から伐出きりだされ自分の眼の前でかんなを掛けられたものであり、其等の食物の出所も、みんなはっきり判っている(このオレンジはどの木から取った、このバナナは何処の畠のと)こと。 之も、幼い頃母の作った料理でなければ安心して喰べられなかったスティヴンスンに、何か楽しい心易さを与えるのであった。

彼は今ロビンソン・クルーソー、或いはウォルト・ホイットマンの生活を実験しつつある。 「太陽と大地と生物とを愛し、富を軽蔑けいべつし、乞う者には与え、白人文明を以て一の大なる偏見と見做みなし、教育なき・ちからあふるる人々と共に闊歩かっぽし、明るい風と光との中で、労働に汗ばんだ皮膚の下に血液の循環を快く感じ、人にわらわれまいとの懸念を忘れて、真に思う事のみを言い、真に欲する事のみを行う。」

━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

光と風と夢 - 情報

光と風と夢

ひかりとかぜとゆめ

文字数 78,485文字

著者リスト:
著者中島 敦

底本 昭和文学全集 第7巻

親本 中島敦全集 第1巻

青空情報


底本:「昭和文学全集 第7巻」小学館
   1989(平成元)年5月1日初版第1刷発行
底本の親本:「中島敦全集 第1巻」筑摩書房
   1976(昭和51)年3月初版発行
※「李陵 山月記 檸檬 愛撫 外十六篇」文春文庫を参照して、「卓子(テーブル)」「輪索(わな)」「稜鏡(プリズム)」「榕樹(ガジマル)」のルビを補った。
入力:kompass
校正:伊藤時也
2001年8月3日公開
2013年10月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:光と風と夢

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!