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李陵

著者:中島敦

りりょう - なかじま あつし

文字数:33,862 底本発行年:1968
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著者中島 敦
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かん武帝ぶてい天漢てんかん二年秋九月、騎都尉きとい李陵りりょうは歩卒五千を率い、辺塞遮虜※(「章+おおざと」、第3水準1-92-79)へんさいしゃりょしょうを発して北へ向かった。 阿爾泰アルタイ山脈の東南端が戈壁沙漠ゴビさばくに没せんとする辺の※(「石+角」、第3水準1-89-6)こうかくたる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。 朔風さくふう戎衣じゅういを吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。 漠北ばくほく浚稽山しゅんけいざんふもとに至って軍はようやく止営した。 すでに敵匈奴きょうどの勢力圏に深く進み入っているのである。 秋とはいっても北地のこととて、苜蓿うまごやしも枯れ、にれ※(「木+聖」、第3水準1-86-19)かわやなぎの葉ももはや落ちつくしている。 木の葉どころか、木そのものさえ(宿営地の近傍きんぼうを除いては)、容易に見つからないほどの、ただ砂と岩とかわらと、水のない河床との荒涼たる風景であった。 極目人煙を見ず、まれに訪れるものとては曠野こうやに水を求める羚羊かもしかぐらいのものである。 突兀とっこつと秋空をくぎる遠山の上を高くかりの列が南へ急ぐのを見ても、しかし、将卒一同だれ一人として甘い懐郷の情などにそそられるものはない。 それほどに、彼らの位置は危険きわまるものだったのである。

騎兵を主力とする匈奴に向かって、一隊の騎馬兵をも連れずに歩兵ばかり(馬にまたがる者は、陵とその幕僚ばくりょう数人にすぎなかった、)で奥地深く侵入することからして、無謀のきわみというほかはない。 その歩兵もわずか五千、絶えて後援はなく、しかもこの浚稽山しゅんけいざんは、最も近い漢塞かんさい居延きょえんからでも優に一千五百里(支那里程)は離れている。 統率者李陵への絶対的な信頼と心服とがなかったならとうてい続けられるような行軍ではなかった。

毎年秋風が立ちはじめるときまって漢の北辺には、胡馬こばむちうった剽悍ひょうかんな侵略者の大部隊が現われる。 辺吏が殺され、人民がかすめられ、家畜が奪略される。 五原ごげん朔方さくほう雲中うんちゅう上谷じょうこく雁門がんもんなどが、その例年の被害地である。 大将軍衛青えいせい嫖騎ひょうき将軍霍去病かくきょへいの武略によって一時漠南ばくなんに王庭なしといわれた元狩げんしゅ以後元鼎げんていへかけての数年を除いては、ここ三十年来欠かすことなくこうした北辺の災いがつづいていた。 霍去病かくきょへいが死んでから十八年、衛青えいせい歿ぼっしてから七年。 ※(「さんずい+足」、第4水準2-78-51)野侯さくやこう趙破奴ちょうはどは全軍を率いてくだり、光禄勲こうろくくん徐自為じょじい朔北さくほくに築いた城障もたちまち破壊される。 全軍の信頼をつなぐに足る将帥しょうすいとしては、わずかに先年大宛だいえんを遠征して武名をげた弐師じし将軍李広利りこうりがあるにすぎない。

その年――天漢二年夏五月、――匈奴きょうどの侵略に先立って、弐師将軍が三万騎に将として酒泉しゅせんを出た。 しきりに西辺をうかがう匈奴の右賢王うけんおうを天山に撃とうというのである。 武帝は李陵に命じてこの軍旅の輜重しちょうのことに当たらせようとした。 未央宮びおうきゅう武台殿ぶだいでんに召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請うた。 陵は、飛将軍ひしょうぐんと呼ばれた名将李広りこうの孫。 つとに祖父の風ありといわれた騎射きしゃの名手で、数年前から騎都尉きといとして西辺の酒泉しゅせん張掖ちょうえきってしゃを教え兵を練っていたのである。 年齢もようやく四十に近い血気盛りとあっては、輜重しちょうの役はあまりに情けなかったに違いない。 臣が辺境に養うところの兵は皆荊楚けいその一騎当千の勇士なれば、願わくは彼らの一隊を率いて討ってで、側面から匈奴の軍を牽制けんせいしたいという陵の嘆願には、武帝もうなずくところがあった。 しかし、相つづく諸方への派兵のために、あいにく、陵の軍にくべき騎馬の余力がないのである。 李陵はそれでも構わぬといった。 確かに無理とは思われたが、輜重しちょうの役などに当てられるよりは、むしろおのれのために身命を惜しまぬ部下五千とともに危うきをおかすほうを選びたかったのである。 臣願わくは少をもって衆を撃たんといった陵の言葉を、派手はで好きな武帝は大いによろこんで、その願いをれた。 李陵は西、張掖ちょうえきに戻って部下の兵をろくするとすぐに北へ向けて進発した。 当時居延きょえんたむろしていた彊弩都尉きょうどとい路博徳ろはくとくが詔を受けて、陵の軍を中道まで迎えに出る。 そこまではよかったのだが、それから先がすこぶるまずいことになってきた。 元来この路博徳ろはくとくという男は古くから霍去病かくきょへいの部下として軍に従い、※(「丕+おおざと」、第3水準1-92-64)離侯ふりこうにまで封ぜられ、ことに十二年前には伏波ふくは将軍として十万の兵を率いて南越なんえつを滅ぼした老将である。 その後、法にして侯を失い現在の地位におとされて西辺を守っている。 年齢からいっても、李陵とは父子ほどに違う。 かつては封侯ほうこうをも得たその老将がいまさら若い李陵ごときの後塵こうじんを拝するのがなんとしても不愉快だったのである。

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李陵 - 情報

李陵

りりょう

文字数 33,862文字

著者リスト:
著者中島 敦

底本 李陵・山月記・弟子・名人伝

青空情報


底本:「李陵・山月記・弟子・名人伝」角川文庫、角川書店
   1968(昭和43)年9月10日改版初版発行
   1998(平成10)年5月30日改版52版発行
入力:佐野良二
校正:松永正敏
2001年3月14日公開
2011年2月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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