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大菩薩峠 01 甲源一刀流の巻

著者:中里介山

だいぼさつとうげ - なかざと かいざん

文字数:61,037 底本発行年:1976
著者リスト:
著者中里 介山
底本: 大菩薩峠1
親本: 大菩薩峠 一
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序章-章なし

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この小説「大菩薩峠」全篇の主意とする処は、人間界の諸相を曲尽きょくじんして、大乗遊戯だいじょうゆげの境に参入するカルマ曼陀羅まんだらの面影を大凡下だいぼんげの筆にうつし見んとするにあり。 この着想前古に無きものなれば、その画面絶後の輪郭を要すること是非無かるべきなり。 読者、一染いっせんの好憎に執し給うこと勿れ。 至嘱ししょく 著者謹言

[#改ページ]

大菩薩峠だいぼさつとうげは江戸を西にる三十里、甲州裏街道が甲斐国かいのくに東山梨郡萩原はぎわら村に入って、その最も高く最もけわしきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。

標高六千四百尺、昔、貴きひじりが、このみねいただきに立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像をめて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹ふえふき川となり、いずれも流れの末永く人を湿うるおし田をみのらすと申し伝えられてあります。

江戸を出て、武州八王子の宿しゅくから小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の追分おいわけを右にとってくこと十三里、武州青梅おうめの宿へ出て、それから山の中を甲斐の石和いさわへ出る、これがいわゆる甲州裏街道(一名は青梅街道)であります。

青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に日本武尊やまとたけるのみこと、中世に日蓮上人の遊跡ゆうせきがあり、くだって慶応の頃、海老蔵えびぞう小団次こだんじなどの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の郡内ぐんないあたりは人気が悪く、ゆすられることをおそれてワザワザこの峠へ廻ったということです。 人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。 それで人ののぼわずらう所は春もまた上り煩うと見え、峠の上はいま新緑の中に桜の花が真盛りです。

上野原うえのはらへ、盗人ぬすっとが入りましたそうでがす」

「ヘエ、上野原へ盗人が……」

「それがはや、お陣屋へ入ったというでがすから驚くでがす」

「驚いたなあ、お陣屋へ盗賊が……どうしてまあ、このごろのように盗賊が流行はやることやら」

妙見みょうけんやしろの縁に腰をかけて話し込んでいるのは老人と若い男です。 この両人は別に怪しいものではない、このあたりの山里に住んで、木も伐れば焼畑やきばたも作るという人たちであります。

これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。

萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て小菅こすげから炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。 萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。 小菅が海を代表して魚塩ぎょえんを運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものです。 もしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります。

右の両人は、この近まわりに盗賊のはやることを話し合っていたが、結局、

「どろぼうがこわいのは物持ものもちしゅうのことよ、こちとらが家はどろぼうの方でおそれて逃げるわ」

ということに落ちて、笑って立とうとする時に、峠の道の武州路ぶしゅうじの方から青葉の茂みをわけて登り来る人影ひとかげがあります。

「あ、人が来る、お武家様みたようだ」

二人は少しあわて気味で、炭俵や糸革袋いとかわぶくろが結びつけられた背負梯子しょいばしごへ両手を突っ込んで、いま登り来るという武家の眼をのがれるもののように、やしろの裏路を黄金沢こがねざわの方へ切れてしまいます。

ほどなく武州路の方からここへ登って来たのは、彼等両人が認めた通り、ひとりの武士さむらいでありました。 黒の着流しで、定紋じょうもんはなごま博多はかたの帯を締めて、朱微塵しゅみじん海老鞘えびざやの刀脇差わきざしをさし、羽織はおりはつけず、脚絆草鞋きゃはんわらじもつけず、この険しい道を、素足に下駄穿きでサッサッと登りつめて、いま頂上の見晴らしのよいところへ来て、深い編笠あみがさをかたげて、甲州路のかたを見廻しました。

歳は三十の前後、細面ほそおもてで色は白く、身はせているが骨格はえています。 この若い武士が峠の上に立つと、ゴーッと、青嵐あおあらしくずれる。 谷から峰へ吹き上げるうら葉が、海の浪がしらを見るようにさわ立つ。 そこへ何か知らん、寄せ来る波で岸へ打ち上げられたように飛び出して来た小動物があります。

妙見の社の上にかぶさった栗の大木の上にかたまって、武士の方を見つめては時々白い歯をいてキャッキャッとく。 その数、十匹ほど、ここの名物の猿であります。

序章-章なし
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大菩薩峠 - 情報

大菩薩峠 01 甲源一刀流の巻

だいぼさつとうげ 01 こうげんいっとうりゅうのまき

文字数 61,037文字

著者リスト:
著者中里 介山

底本 大菩薩峠1

親本 大菩薩峠 一

青空情報


底本:「大菩薩峠1」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年12月4日第1刷発行
   1996(平成8)年3月10日第5刷
底本の親本:「大菩薩峠」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2001年5月8日公開
2004年2月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:大菩薩峠

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