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二つの手紙

著者:芥川龍之介

ふたつのてがみ - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:11,719 底本発行年:1971
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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序章-章なし

ある機会で、しもに掲げる二つの手紙を手に入れた。 一つは本年二月中旬、もう一つは三月上旬、――警察署長の許へ、郵税先払さきばらいで送られたものである。 それをここへ掲げる理由は、手紙自身が説明するであろう。

第一の手紙

――警察署長閣下かっか

先ず何よりも先に、閣下はわたくし正気しょうきだと云う事を御信じ下さい。 これ私があらゆる神聖なものに誓って、保証致します。 ですから、どうか私の精神に異常がないと云う事を、御信じ下さい。 さもないと、私がこの手紙を閣下に差上げる事が、全く無意味になるおそれがあるのでございます。 そのくらいなら、私は何を苦しんで、こんな長い手紙を書きましょう。

閣下、私はこれを書く前に、ずいぶん躊躇ちゅうちょ致しました。 何故なにゆえかと申しますと、これを書く以上、私は私一家の秘密をも、閣下の前に暴露しなければならないからでございます。 勿論それは、私の名誉にとって、かなり大きな損害に相違ございません。 しかし事情はこれを書かなければ、もう一刻の存在も苦痛なほど、切迫して参りました。 ここで私は、ついに断乎たる処置を執る事に、致したのでございます。

そう云う必要に迫られて、これを書いた私が、どうして、狂人扱いをされて、黙って居られましょう。 私はもう一度、ここに改めてお願い致します。 閣下、どうか私の正気だと云う事を御信用下さい。 そうして、この手紙を御面倒ながら、御一読下さい。 これは私が、私と私の妻との名誉をして、書いたものでございますから。

かような事を、くどく書きつづけるのは、繁忙な職務を御鞅掌ごおうしょうになる閣下にとって、余りに御迷惑を顧みない仕方かも知れません。 しかし、私のしもに申上げようとする事実の性質上、閣下が私の正気だと云う事を御信用になるのは、どうしても必要でございます。 さもなければ、どうしてこの超自然な事実を、御承認になる事が出来ましょう。 どうして、この創造的精力の奇怪な作用を、可能視なさる事が出来ましょう。 それほど、私が閣下の御留意を請いたいと思う事実には不可思議な性質が加わっているのでございます。 ですから、私は以上のお願いを敢て致しました。 なおこれから書く事も、あるいは冗漫じょうまんそしりを免れないものかも知れません。 しかし、これは一方では私の精神に異状がないと云う事を証明すると同時に、また一方ではこう云う事実も古来決して絶無ではなかったと云う事をお耳に入れるために、幾分の必要がありはしないかと、思われるのでございます。

歴史上、最も著名な実例の一つは、恐らくカテリナ女帝に現われたものでございましょう。 それからまた、ゲエテに現れた現象も、やはりそれに劣らず著名なものでございます。 が、これらは、余り人口に膾炙かいしゃしすぎて居りますから、ここにはわざと申上げません。 私は、それより二三の権威ある実例によって、出来るだけ手短てみじかに、この神秘の事実の性質を御説明申したいと思います。 まず Dr. Werner の与えている実例から、始めましょう。 彼によりますと、ルウドウィッヒスブルクの Ratzel と云う宝石商は、ある夜まちの角をまがる拍子に、自分と寸分もちがわない男と、ばったり顔を合せたそうでございます。 その男は、のち間もなく、木樵きこりが※(「木+解」、第3水準1-86-22)の木を伐り倒すのに手を借して、その木の下に圧されて歿くなりました。 これによく似ているのは、ロストックで数学の教授をしていた Becker に起った実例でございましょう。 ベッカアはある夜五六人の友人と、神学上の議論をして、引用書が必要になったものでございますから、それをとりに独りで自分の書斎へ参りました。 すると、彼以外の彼自身が、いつも彼のかける椅子いすに腰をかけて、何か本を読んでいるではございませんか。 ベッカアは驚きながら、その人物の肩ごしに、読んでいる本を一瞥いちべつ致しました。

序章-章なし
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二つの手紙 - 情報

二つの手紙

ふたつのてがみ

文字数 11,719文字

著者リスト:

底本 芥川龍之介全集1

親本 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集

青空情報


底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年9月24日第1刷発行
   1995(平成7)年10月5日第13刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月6日公開
2004年3月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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