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アグニの神

著者:芥川龍之介

アグニのかみ - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:7,950 底本発行年:1968
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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序章-章なし

支那の上海シヤンハイの或町です。 昼でも薄暗い或家の二階に、人相の悪い印度インド人の婆さんが一人、商人らしい一人の亜米利加アメリカ人と何かしきりに話し合つてゐました。

「実は今度もお婆さんに、うらなひを頼みに来たのだがね、――」

亜米利加人はさう言ひながら、新しい煙草たばこへ火をつけました。

「占ひですか? 占ひは当分見ないことにしましたよ。」

婆さんはあざけるやうに、じろりと相手の顔を見ました。

「この頃は折角見て上げても、御礼さへろくにしない人が、多くなつて来ましたからね。」

「そりや勿論御礼をするよ。」

亜米利加人は惜しげもなく、三百ドルの小切手を一枚、婆さんの前へ投げてやりました。

「差当りこれだけ取つて置くさ。 もしお婆さんの占ひが当れば、その時は別に御礼をするから、――」

婆さんは三百弗の小切手を見ると、急に愛想あいそがよくなりました。

「こんなに沢山頂いては、かへつて御気の毒ですね。 ――さうして一体又あなたは、何を占つてくれろとおつしやるんです?」

「私が見て貰ひたいのは、――」

亜米利加人は煙草をくはへたなり、狡猾かうくわつさうな微笑を浮べました。

「一体日米戦争はいつあるかといふことなんだ。 それさへちやんとわかつてゐれば、我々商人はたちまちの内に、大金儲けが出来るからね。」

「ぢや明日あしたいらつしやい。 それまでに占つて置いて上げますから。」

「さうか。 ぢや間違ひのないやうに、――」

印度人の婆さんは、得意さうに胸をらせました。

「私の占ひは五十年来、一度もはづれたことはないのですよ。 何しろ私のはアグニの神が、御自身御告げをなさるのですからね。」

亜米利加人が帰つてしまふと、婆さんは次の間の戸口へ行つて、

恵蓮ゑれん 恵蓮。」 と呼び立てました。

その声に応じて出て来たのは、美しい支那人の女の子です。 が、何か苦労でもあるのか、この女の子の下ぶくれの頬は、まるでらふのやうな色をしてゐました。

「何を愚図愚図ぐづぐづしてゐるんだえ? ほんたうにお前位、づうづうしい女はありやしないよ。 きつと又台所で居眠りか何かしてゐたんだらう?」

恵蓮はいくら叱られても、ぢつと俯向うつむいたまま黙つてゐました。

「よくお聞きよ。 今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺ひを立てるんだからね、そのつもりでゐるんだよ。」

女の子はまつ黒な婆さんの顔へ、悲しさうな眼を挙げました。

「今夜ですか?」

序章-章なし
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アグニの神 - 情報

アグニの神

アグニのかみ

文字数 7,950文字

著者リスト:

底本 現代日本文學大系 43 芥川龍之介集

青空情報


底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月11日公開
2004年2月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:アグニの神

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