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I can speak

著者:太宰治

アイ キャン スピーク - だざい おさむ

文字数:1,921 底本発行年:1982
著者リスト:
著者太宰 治
底本: 新樹の言葉
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序章-章なし

くるしさは、忍従の夜。 あきらめの朝。 この世とは、あきらめの努めか。 わびしさの堪えか。 わかさ、かくて、日に虫食われゆき、仕合せも、陋巷ろうこうの内に、見つけし、となむ。

わが歌、声を失い、しばらく東京で無為徒食して、そのうちに、何か、歌でなく、わば「生活のつぶやき」とでもいったようなものを、ぼそぼそ書きはじめて、自分の文学のすすむべきみちすこしずつ、そのおのれの作品に依って知らされ、ま、こんなところかな? と多少、自信に似たものを得て、まえから腹案していた長い小説に取りかかった。

昨年、九月、甲州の御坂みさか峠頂上の天下茶屋という茶店の二階を借りて、そこで少しずつ、その仕事をすすめて、どうやら百枚ちかくなって、読みかえしてみても、そんなに悪い出来ではない。 あたらしく力を得て、とにかくこれを完成させぬうちは、東京へ帰るまい、と御坂みさか木枯こがらしつよい日に、勝手にひとりで約束した。

ばかな約束をしたものである。 九月、十月、十一月、御坂の寒気堪えがたくなった。 あのころは、心細い夜がつづいた。 どうしようかと、さんざ迷った。 自分で勝手に、自分に約束して、いまさら、それを破れず、東京へ飛んで帰りたくても、何かそれは破戒のような気がして、峠のうえで、途方に暮れた。 甲府へ降りようと思った。 甲府なら、東京よりも温いほどで、この冬も大丈夫すごせると思った。

甲府へ降りた。 たすかった。 変なせきが出なくなった。 甲府のまちはずれの下宿屋、日当りのいい一部屋かりて、机にむかって坐ってみて、よかったと思った。 また、少しずつ仕事をすすめた。

おひるごろから、ひとりでぼそぼそ仕事をしていると、わかい女の合唱が聞えて来る。 私はペンを休めて、耳傾ける。 下宿と小路ひとつへだて製糸工場が在るのだ。 そこの女工さんたちが、作業しながら、唄うのだ。 なかにひとつ、際立っていい声が在って、そいつがリイドして唄うのだ。 鶏群の一鶴いっかく、そんな感じだ。 いい声だな、と思う。 お礼を言いたいとさえ思った。 工場のへいをよじのぼって、その声の主を、ひとめ見たいとさえ思った。

ここにひとり、わびしい男がいて、毎日毎日あなたの唄で、どんなに救われているかわからない、あなたは、それをご存じない、あなたは私を、私の仕事を、どんなに、けなげに、はげましてれたか、私は、しんからお礼を言いたい。 そんなことを書き散らして、工場の窓から、投文なげぶみしようかとも思った。

けれども、そんなことして、あの女工さん、おどろき、おそれてふっと声を失ったら、これは困る。 無心の唄を、私のお礼が、かえって濁らせるようなことがあっては、罪悪である。 私は、ひとりでやきもきしていた。

恋、かも知れなかった。 二月、寒いしずかな夜である。 工場の小路で、酔漢の荒い言葉が、突然起った。 私は、耳をすました。

――ば、ばかにするなよ。

序章-章なし
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I can speak - 情報

I can speak

アイ キャン スピーク

文字数 1,921文字

著者リスト:
著者太宰 治

底本 新樹の言葉

青空情報


底本:「新樹の言葉」新潮文庫、新潮社
   1982(昭和57)年7月25日発行
初出:「若草」
   1939(昭和14)年2月号
入力:土屋隆
校正:鈴木厚司
2005年10月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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