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破戒

著者:島崎藤村

はかい - しまざき とうそん

文字数:201,332 底本発行年:1968
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著者:島崎 藤村
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序章-章なし

この書の世に出づるにいたりたるは、函館にある秦慶治氏、及び信濃にある神津猛氏のたまものなり。 労作終るの日にあたりて、このものがたりを二人の恩人のまへにさゝぐ。

第壱章

(一)

蓮華寺(れんげじ)では下宿を兼ねた。 瀬川丑松(うしまつ)が急に転宿(やどがへ)を思ひ立つて、借りることにした部屋といふのは、其蔵裏(くり)つゞきにある二階の角のところ。 寺は信州下水内郡(しもみのちごほり)飯山町二十何ヶ寺の一つ、真宗に附属する古刹(こせつ)で、丁度其二階の窓に倚凭(よりかゝ)つて眺めると、銀杏(いてふ)の大木を経(へだ)てゝ飯山の町の一部分も見える。 さすが信州第一の仏教の地、古代を眼前(めのまへ)に見るやうな小都会、奇異な北国風の屋造(やづくり)、板葺の屋根、または冬期の雪除(ゆきよけ)として使用する特別の軒庇(のきびさし)から、ところ/″\に高く顕(あらは)れた寺院と樹木の梢まで――すべて旧めかしい町の光景(ありさま)が香の烟(けぶり)の中に包まれて見える。 たゞ一際(ひときは)目立つて此窓から望まれるものと言へば、現に丑松が奉職して居る其小学校の白く塗つた建築物(たてもの)であつた。

丑松が転宿(やどがへ)を思ひ立つたのは、実は甚だ不快に感ずることが今の下宿に起つたからで、尤(もつと)も賄(まかなひ)でも安くなければ、誰も斯様(こん)な部屋に満足するものは無からう。 壁は壁紙で張りつめて、それが煤(すゝ)けて茶色になつて居た。 粗造な床の間、紙表具の軸、外には古びた火鉢が置いてあるばかりで、何となく世離れた、静寂(しづか)な僧坊であつた。 それがまた小学教師といふ丑松の今の境遇に映つて、妙に佗(わび)しい感想(かんじ)を起させもする。

今の下宿には斯(か)ういふ事が起つた。 半月程前、一人の男を供に連れて、下高井の地方から出て来た大日向(おほひなた)といふ大尽(だいじん)、飯山病院へ入院の為とあつて、暫時(しばらく)腰掛に泊つて居たことがある。 入院は間もなくであつた。 もとより内証はよし、病室は第一等、看護婦の肩に懸つて長い廊下を往つたり来たりするうちには、自然(おのづ)と豪奢(がうしや)が人の目にもついて、誰が嫉妬(しつと)で噂(うはさ)するともなく、『彼(あれ)は穢多(ゑた)だ』といふことになつた。 忽ち多くの病室へ伝(つたは)つて、患者は総立(そうだち)。 『放逐して了(しま)へ、今直ぐ、それが出来ないとあらば吾儕(われ/\)挙(こぞ)つて御免を蒙る』と腕捲(うでまく)りして院長を脅(おびやか)すといふ騒動。 いかに金尽(かねづく)でも、この人種の偏執(へんしふ)には勝たれない。 ある日の暮、籠に乗せられて、夕闇の空に紛れて病院を出た。 籠は其儘(そのまゝ)もとの下宿へ舁(かつ)ぎ込まれて、院長は毎日のやうに来て診察する。 さあ今度は下宿のものが承知しない。 丁度丑松が一日の勤務(つとめ)を終つて、疲れて宿へ帰つた時は、一同『主婦(かみさん)を出せ』と喚(わめ)き立てるところ。 『不浄だ、不浄だ』の罵詈(ばり)は無遠慮な客の口唇(くちびる)を衝(つ)いて出た。 『不浄だとは何だ』と丑松は心に憤つて、蔭ながらあの大日向の不幸(ふしあはせ)を憐んだり、道理(いはれ)のないこの非人扱ひを慨(なげ)いたりして、穢多の種族の悲惨な運命を思ひつゞけた――丑松もまた穢多なのである。

見たところ丑松は純粋な北部の信州人――佐久小県(さくちひさがた)あたりの岩石の間に成長した壮年(わかもの)の一人とは誰の目にも受取れる。 正教員といふ格につけられて、学力優等の卒業生として、長野の師範校を出たのは丁度二十二の年齢(とし)の春。 社会(よのなか)へ突出される、直に丑松はこの飯山へ来た。 それから足掛三年目の今日、丑松はたゞ熱心な青年教師として、飯山の町の人に知られて居るのみで、実際穢多である、新平民であるといふことは、誰一人として知るものが無かつたのである。

『では、いつ引越していらつしやいますか。』

と声をかけて、入つて来たのは蓮華寺の住職の匹偶(つれあひ)。 年の頃五十前後。 茶色小紋の羽織を着て、痩せた白い手に珠数(ずゝ)を持ち乍(なが)ら、丑松の前に立つた。 土地の習慣(ならはし)から『奥様』と尊敬(あが)められて居る斯(こ)の有髪(うはつ)の尼は、昔者として多少教育もあり、都会(みやこ)の生活も万更(まんざら)知らないでも無いらしい口の利き振であつた。 世話好きな性質を額にあらはして、微な声で口癖のやうに念仏して、対手(あひて)の返事を待つて居る様子。

其時、丑松も考へた。 明日(あす)にも、今夜にも、と言ひたい場合ではあるが、さて差当つて引越しするだけの金が無かつた。 実際持合せは四十銭しかなかつた。

序章-章なし
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破戒 - 情報

破戒

はかい

文字数 201,332文字

著者リスト:
著者:島崎 藤村

底本 現代日本文學大系13 島崎藤村集(一)

青空情報


底本:「現代日本文學大系13 島崎藤村集(一)」筑摩書房
   1968(昭和43)年10月5日初版第1刷発行
初出:「破戒」緑蔭叢書第壱編、島崎春樹(自費出版)
   1906(明治39)年3月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:野口英司
校正:伊藤時也
2006年10月22日作成
2007年2月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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