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著者:芥川龍之介

しろ - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:7,521 底本発行年:1971
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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ある春のひる過ぎです。 しろと云う犬は土をぎ嗅ぎ、静かな往来を歩いていました。 狭い往来の両側にはずっと芽をふいた生垣いけがきが続き、そのまた生垣のあいだにはちらほら桜なども咲いています。 白は生垣に沿いながら、ふとある横町よこちょうへ曲りました。 が、そちらへ曲ったと思うと、さもびっくりしたように、突然立ち止ってしまいました。

それも無理はありません。 その横町の七八間先には印半纏しるしばんてんを着た犬殺しが一人、わなうしろに隠したまま、一匹の黒犬をねらっているのです。 しかも黒犬は何も知らずに、犬殺しの投げてくれたパンか何かを食べているのです。 けれども白が驚いたのはそのせいばかりではありません。 見知らぬ犬ならばともかくも、今犬殺しに狙われているのはお隣の飼犬かいいぬくろなのです。 毎朝顔を合せる度におたがいの鼻のにおいを嗅ぎ合う、大の仲よしの黒なのです。

白は思わず大声に「黒君! あぶない!」と叫ぼうとしました。 が、その拍子ひょうしに犬殺しはじろりと白へ目をやりました。 「教えて見ろ! 貴様から先へわなにかけるぞ。」 ――犬殺しの目にはありありとそう云うおどかしが浮んでいます。 白は余りの恐ろしさに、思わずえるのを忘れました。 いや、忘れたばかりではありません。 一刻もじっとしてはいられぬほど、臆病風おくびょうかぜが立ち出したのです。 白は犬殺しに目をくばりながら、じりじりあとすざりを始めました。 そうしてまた生垣いけがきの蔭に犬殺しの姿が隠れるが早いか、可哀かわいそうな黒を残したまま、一目散いちもくさんに逃げ出しました。

その途端とたんに罠が飛んだのでしょう。 続けさまにけたたましい黒の鳴き声が聞えました。 しかし白は引き返すどころか、足を止めるけしきもありません。 ぬかるみを飛び越え、石ころを蹴散けちらし、往来どめのなわり抜け、五味ごみための箱を引っくり返し、振り向きもせずに逃げ続けました。 御覧なさい。 坂をけおりるのを! そら、自動車にかれそうになりました! 白はもう命の助かりたさに夢中になっているのかも知れません。 いや、白の耳の底にはいまだに黒の鳴き声があぶのようにうなっているのです。

「きゃあん。 きゃあん。 助けてくれえ! きゃあん。 きゃあん。 助けてくれえ!」

白はやっとあえぎ喘ぎ、主人の家へ帰って来ました。 黒塀くろべいの下の犬くぐりを抜け、物置小屋を廻りさえすれば、犬小屋のある裏庭です。 白はほとんど風のように、裏庭の芝生しばふけこみました。 もうここまで逃げて来れば、わなにかかる心配はありません。 おまけに青あおした芝生には、幸いお嬢さんや坊ちゃんもボオル投げをして遊んでいます。 それを見た白の嬉しさは何と云えばいのでしょう? 白は尻尾しっぽを振りながら、一足飛いっそくとびにそこへ飛んで行きました。

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白 - 情報

しろ

文字数 7,521文字

著者リスト:

底本 芥川龍之介全集5

親本 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集

青空情報


底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
初出:「女性改造」
   1923(大正12)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年3月1日公開
2012年3月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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