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蜃気楼

著者:芥川龍之介

しんきろう - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:4,583 底本発行年:1978
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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或秋の午頃ひるごろ、僕は東京から遊びに来た大学生のK君と一しょに蜃気楼しんきろうを見に出かけて行った。 鵠沼くげぬまの海岸に蜃気楼の見えることはたれでももう知っているであろう。 現に僕のうちの女中などは逆まに舟の映ったのを見、「この間の新聞に出ていた写真とそっくりですよ。」 などと感心していた。

僕等は東家あずまやの横を曲り、次手ついでにO君も誘うことにした。 不相変あいかわらず赤シャツを着たO君は午飯ひるめしの支度でもしていたのか、垣越しに見える井戸端にせっせとポンプを動かしていた。 僕は秦皮樹とねりこのステッキを挙げ、O君にちょっと合図をした。

「そっちから上って下さい。 ――やあ、君も来ていたのか?」

O君は僕がK君と一しょに遊びに来たものと思ったらしかった。

「僕等は蜃気楼を見に出て来たんだよ。 君も一しょに行かないか?」

「蜃気楼か? ――」

O君は急に笑い出した。

「どうもこの頃は蜃気楼ばやりだな。」

五分ばかりたった後、僕等はもうO君と一しょに砂の深いみちを歩いて行った。 路の左は砂原だった。 そこに牛車うしぐるまわだちが二すじ、黒ぐろと斜めに通っていた。 僕はこの深い轍に何か圧迫に近いものを感じた。 たくましい天才の仕事のあと、――そんな気も迫って来ないのではなかった。

「まだ僕は健全じゃないね。 ああ云う車の痕を見てさえ、妙に参ってしまうんだから。」

O君はまゆをひそめたまま、何とも僕の言葉に答えなかった。 が、僕の心もちはO君にははっきり通じたらしかった。

そのうちに僕等は松の間を、――まばらに低い松の間を通り、引地川ひきじがわの岸を歩いて行った。 海は広い砂浜の向うに深い藍色あいいろに晴れ渡っていた。 が、絵の島は家々や樹木も何か憂鬱ゆううつに曇っていた。

「新時代ですね?」

K君の言葉は唐突だった。 のみならず微笑を含んでいた。 新時代? ――しかも僕は咄嗟とっさあいだにK君の「新時代」を発見した。 それは砂止めの笹垣ささがきを後ろに海を眺めている男女だった。 もっとも薄いインバネスに中折帽をかぶった男は新時代と呼ぶには当らなかった。 しかし女の断髪は勿論もちろん、パラソルやかかとの低い靴さえ確に新時代に出来上っていた。

「幸福らしいね。」

「君なんぞはうらやましい仲間だろう。」

O君はK君をからかったりした。

蜃気楼の見える場所は彼等から一町ほど隔っていた。 僕等はいずれも腹這はらばいになり、陽炎かげろうの立った砂浜を川越しに透かして眺めたりした。

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蜃気楼 - 情報

蜃気楼

しんきろう

文字数 4,583文字

著者リスト:

底本 昭和文学全集 第1巻

親本 芥川龍之介全集 第八卷

青空情報


底本:「昭和文学全集 第1巻」小学館
   1987(昭和62)年5月1日初版第1刷発行
底本の親本:「芥川龍之介全集 第八卷」岩波書店
   1978(昭和53)年3月22日発行
初出:「婦人公論 第十二年第三号」
   1927(昭和2)年3月1日発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月24日公開
2016年2月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:蜃気楼

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