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真珠夫人

著者:菊池寛

しんじゅふじん - きくち かん

文字数:286,447 底本発行年:1937
著者リスト:
著者菊池 寛
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奇禍

汽車が大船を離れた頃から、信一郎の心は、段々烈しくなつて行く焦燥もどかしさで、満たされてゐた。 国府津迄の、まだ五つも六つもある駅毎に、汽車が小刻みに、停車せねばならぬことが、彼の心持を可なり、いら立たせてゐるのであつた。

彼は、一刻も早く静子に、会ひたかつた。 そして彼の愛撫に、かつゑてゐる彼女を、思ふさま、いたはつてやりたかつた。

時は六月のはじめであつた。 汽車の線路に添うて、潮のやうに起伏してゐる山や森の緑は、少年のやうな若々しさを失つて、むつとするやうなあくどさで車窓に迫つて来てゐた。 たゞ、所々植付けられたばかりの早苗が、軽いほのぼのとした緑を、初夏の風の下に、漂はせてゐるのであつた。

常ならば、箱根から伊豆半島の温泉へ、志ざす人々で、一杯になつてゐる筈の二等室も、春と夏との間の、湯治には半端な時節であるのと、一週間ばかり雨が、降り続いた揚句である為とで、それらしい乗客の影さへ見えなかつた。 たゞ仏蘭西フランス人らしい老年の夫婦が、一人息子らしい十五六の少年を連れて、車室の一隅を占めてゐるのが、信一郎の注意を、最初から惹いてゐるだけである。 彼は、若い男鹿の四肢のやうに、スラリとしなやかな少年の姿を、飽かず眺めたり、父と母とにかたみに話しかける簡単な会話に、耳を傾けたりしてゐた。 此の一行の外には、洋服を着た会社員らしい二人連と、田舎娘とその母親らしい女連が、乗り合はしてゐるだけである。

が、あの湯治階級と云つたやうな、男も女も、大島の揃か何かを着て、金や白金プラチナや宝石の装身具を身体のあらゆる部分に、燦かしてゐるやうな人達が、乗り合はしてゐないことは信一郎にとつて結局気楽だつた。 彼等は、屹度きつと声高に、喋り散らしたり、何かを食べ散らしたり、無作法に振舞つたりすることに依つて、現在以上に信一郎の心持をいら/\させたに違ひなかつたから。

日は、深く翳つてゐた。 汽車の進むに従つて、隠見する相模灘はすゝけた銀の如く、底光をおびたまゝ澱んでゐた。 先刻さつきまで、見えてゐた天城山も、何時の間にか、灰色に塗り隠されて了つてゐた。 相模灘を圧してゐる水平線の腰の辺りには、雨をでも含んでゐさうな、暗鬱な雲が低迷してゐた。 もう、午後四時を廻つてゐた。

『静子が待ちあぐんでゐるに違ひない。』 と思ふ毎に、汽車の廻転が殊更遅くなるやうに思はれた。 信一郎は、いらいらしくなつて来る心を、ぢつと抑へ付けて、湯河原の湯宿に、自分を待つてゐる若き愛妻の面影を、くうに描いて見た。 何よりも先づ、その石竹色に湿うるんでゐる頬に、微笑の先駆として浮かんで来る、笑靨ゑくぼが現はれた。 それに続いて、慎ましい脣、高くはないけれども穏やかな品のいゝ鼻。 が、そんな目鼻立よりも、顔全体に現はれてゐる処女らしい含羞性シャイネス、それを思ひ出す毎に、信一郎自身の表情が、たるんで来て、其処には居合はさぬ妻に対する愛撫の微笑が、何時の間にか、浮かんでゐた。 彼は、それを誰かに、気付かれはしないかと、恥しげに車内を見廻はした。 が、例の仏蘭西フランスの少年が、その時、

お母親さんマヽン!」と声高に呼びかけた外には、乗合の人々は、銘々に何かを考へてゐるらしかつた。

汽車は、海近い松林の間を、轟々と駆け過ぎてゐるのであつた。

湯の宿の欄干に身をもたせて、自分を待ちあぐんでゐる愛妻の面影が、汽車の車輪の廻転に連れて消えたりかつ浮かんだりした。 それほど、信一郎は新しく婚した静子に、心も身も与へてゐたのである。

つい三月ほど前に、田舎で挙げた結婚式のことを考へても、上京の途すがら奈良や京都に足を止めた蜜月旅行らしい幾日かの事を考へても、彼は静子を獲たことが、どんなに幸福を意味してゐるかをしみ/″\と悟ることが出来た。

結婚の式場で示した彼女の、処女らしい羞しさと、浄らかさ、それに続いた同棲生活に於て、自分に投げて来た全身的な信頼、日が経つに連れて、埋もれてゐた宝玉のやうに、だん/\現はれて来る彼女のいろ/\な美質、さうしたことを、取とめもなく考へてゐると、信一郎は一刻も早く、目的地に着いて初々しい静子の透き通るやうなくゝり顎のあたりを、軽くパットしてやりたくて、仕様がなくなつて来た。

『僅か一週間、離れてゐると、もうそんなに逢ひたくて、堪らないのか。』 と自分自身心の中で、さう反問すると、信一郎は駄々つ子か何かのやうに、じれ切つてゐる自分が気恥しくないこともなかつた。

が、新婚後、まだ幾日にもならない信一郎に取つては、わずか一週間ばかりの短い月日が、どんなにか長く、三月も四月もに相当するやうに思はれた事だらう。 静子が、急性肺炎の病後のために、医者から温泉行を、勧められた時にも、信一郎は自分の手許から、妻を半日でも一日でも、手放して置くことが、不安な淋しい事のやうに思はれて、仕方がなかつた。 それかと云つて、結婚のため、半月以上も、勤先を欠勤してゐる彼には休暇を貰ふ口実などは、何も残つてゐなかつた。

奇禍

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真珠夫人 - 情報

真珠夫人

しんじゅふじん

文字数 286,447文字

著者リスト:
著者菊池 寛

底本 菊池寛全集 第五巻

親本 菊池寛全集 第六巻

青空情報


底本:「菊池寛全集 第五巻」高松市菊池寛記念館刊行、文藝春秋発売
   1994(平成6)年3月15日発行
底本の親本:「菊池寛全集 第六巻」中央公論社
   1937(昭和12)年9月21日刊行
初出:「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」
   1920(大正9)年6月9日〜12月22日
初収単行本:「真珠夫人(前編・後編)」新潮社
   1920(大正9)年12月28日刊行
※外来語に限って、片仮名に小書きを用いる本文の表記に合わせ、ルビも処理しました。(ただし「希臘(ギリシヤ)」には、小書きを用いませんでした。)
※旧仮名遣いから外れると思われる表記にも、注記はしませんでした。
※「唐澤」「唐沢」、「愈々(いよ/\)」「愈(いよ/\)」、「…だけ」「…丈」「…丈(だ)け」「…丈(だけ)」、「此の青年」「此青年」、「面魂(つらだましひ)」「面魂(つらたましひ)」などの混在は、底本通りです。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:松永正敏
2005年3月8日作成
2012年10月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:真珠夫人

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