真珠夫人
著者:菊池寛
しんじゅふじん - きくち かん
文字数:286,447 底本発行年:1937
奇禍
一
汽車が大船を離れた頃から、信一郎の心は、段々烈しくなつて行く
彼は、一刻も早く静子に、会ひたかつた。
そして彼の愛撫に、
時は六月の
常ならば、箱根から伊豆半島の温泉へ、志ざす人々で、一杯になつてゐる筈の二等室も、春と夏との間の、湯治には半端な時節であるのと、一週間ばかり雨が、降り続いた揚句である為とで、それらしい乗客の影さへ見えなかつた。
たゞ
が、あの湯治階級と云つたやうな、男も女も、大島の揃か何かを着て、金や
日は、深く翳つてゐた。
汽車の進むに従つて、隠見する相模灘はすゝけた銀の如く、底光を
『静子が待ちあぐんでゐるに違ひない。』
と思ふ毎に、汽車の廻転が殊更遅くなるやうに思はれた。
信一郎は、いらいらしくなつて来る心を、ぢつと抑へ付けて、湯河原の湯宿に、自分を待つてゐる若き愛妻の面影を、
「
汽車は、海近い松林の間を、轟々と駆け過ぎてゐるのであつた。
二
湯の宿の欄干に身を
つい三月ほど前に、田舎で挙げた結婚式のことを考へても、上京の途すがら奈良や京都に足を止めた蜜月旅行らしい幾日かの事を考へても、彼は静子を獲たことが、どんなに幸福を意味してゐるかをしみ/″\と悟ることが出来た。
結婚の式場で示した彼女の、処女らしい羞しさと、浄らかさ、それに続いた同棲生活に於て、自分に投げて来た全身的な信頼、日が経つに連れて、埋もれてゐた宝玉のやうに、だん/\現はれて来る彼女のいろ/\な美質、さうしたことを、取とめもなく考へてゐると、信一郎は一刻も早く、目的地に着いて初々しい静子の透き通るやうなくゝり顎の
『僅か一週間、離れてゐると、もうそんなに逢ひたくて、堪らないのか。』 と自分自身心の中で、さう反問すると、信一郎は駄々つ子か何かのやうに、じれ切つてゐる自分が気恥しくないこともなかつた。
が、新婚後、まだ幾日にもならない信一郎に取つては、
奇禍
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
真珠夫人 - 情報
青空情報
底本:「菊池寛全集 第五巻」高松市菊池寛記念館刊行、文藝春秋発売
1994(平成6)年3月15日発行
底本の親本:「菊池寛全集 第六巻」中央公論社
1937(昭和12)年9月21日刊行
初出:「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」
1920(大正9)年6月9日〜12月22日
初収単行本:「真珠夫人(前編・後編)」新潮社
1920(大正9)年12月28日刊行
※外来語に限って、片仮名に小書きを用いる本文の表記に合わせ、ルビも処理しました。(ただし「希臘(ギリシヤ)」には、小書きを用いませんでした。)
※旧仮名遣いから外れると思われる表記にも、注記はしませんでした。
※「唐澤」「唐沢」、「愈々(いよ/\)」「愈(いよ/\)」、「…だけ」「…丈」「…丈(だ)け」「…丈(だけ)」、「此の青年」「此青年」、「面魂(つらだましひ)」「面魂(つらたましひ)」などの混在は、底本通りです。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:松永正敏
2005年3月8日作成
2012年10月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
青空文庫:真珠夫人