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久坂葉子の誕生と死亡

著者:久坂葉子

くさかようこのたんじょうとしぼう - くさか ようこ

文字数:7,570 底本発行年:1978
著者リスト:
著者久坂 葉子
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序章-章なし

今からざっと三年半前、一九四九年の夏前に、久坂葉子は、この世に存在しはじめた。 人間の誕生は、偶然に無意識のうちに、それでいておごそかに行われるものだと思う。 しかし、この名前は、自分の意識的な行為によって名附けられ、誕生を強いたのであった。 この名を、原稿用紙の片隅に記した時は、私一人しか認めることの出来ない名前であったのだから、確かに、この世に存在し得たものではなかった。 誰かが認めなければ、その物体の存在価値など、零であるのだ。

その時、雨が降っていたように思う。 私は女学校の時の友人につれられて、島尾敏雄氏の六甲の家を訪問した。 それ以前から、私は小説を書いたり詩をノートのはしくれに鉛筆書きしたりしていて、ほんの少し、文学らしいものへの動きは、周囲の人達に感づかれていたのだ。 父が俳句をやっていた影響で、登水という号を父からもらい、句会に列席したことなどあるが、それは約半年位で、自ら、俳句をつくることをよしてしまっていた。 その後、本名で、詩を投稿し、その一つは「百世」、その一つは「文章倶楽部」に、送ったものは必ず残るといった調子で、本屋の店頭に、わが名を見出したこともあったのだ。 けれど、その前者はつぶれ、後者は、あほらしくなり、書いたものは、どこにも出さず山積時代が、三カ月程つづいていた。 ところで、その友人が、私をあわれだとみたのか、島尾氏に、こんな女が居るんだと語ったらしく、それならVIKINGにおいで、ということで、私は、島尾敏雄氏なるものも、VIKINGなるものも、まったく御存知ないままに、三十枚ばかりの小説をもって、六甲へ行ったわけなのだ。 その小説は、アカンとされたのだが、私が、はじめて、久坂葉子なる名前を附したもので、一週間位して、第二作、「入梅」を、島尾氏のところへ持って行き、それがVIKINGにのったのだ。

島尾氏は無口な人であった。 だから、私は、傍のベッドに、キョトキョトしていた赤ん坊ばかりをみて居り、かわいいですね、位は云ったように記憶している。 二度目の訪問は、私一人であったから、余計、その対面は、かたくるしく、縁側の椅子に、浅くこしかけていた私は、膝の上のぼろぼろのハンドバッグを、一度ならず二度程、ガシャンと落した。

八月の最終日曜日。 私は、彼と共に、VIKINGの例会に出席した。 阪急にのって、高槻の御寺までゆく間、一言も喋らなかったようである。 車中、彼は、さらの木綿の風呂敷を膝の上において、本をよんでいた。 私は、えんじ色と紺色のその風呂敷が、先生に似つかわしくないものだ、と思っていた。

広い、がらんとしたお寺の座敷で、私は、焼酎なるものをはじめて飲んだ。 そして、久坂葉子と紹介された時、かつて経験したことのない、照れくささを感じたものだ。 だから、私は煙草をやたらに吸った。 大きな声でわめく連中を目の前にしながら、なる程、これが小説を書く人達かいな、と思った。 それ迄、私は小説家など全く縁遠い存在であったのだ。 当時、私は十八歳であった。 会は終ったようでなかなか終らない。 すると、いつの間にか、私の膝の上に、重みが加わった。 これが富士正晴氏の小さな頭であったのだ。 私は、恐怖で胸の中がガンガンした。 が持前の気取根性で平気をよそおっていた。 冗談の一言位云ったのかも知れない。 二次会に、駅の近所でビールを飲んだ。 私の隣に庄野潤三氏が腰かけた。 彼は、私に名刺をそっとよこして、手紙を下さいと云った。 そして、あなたの名刺をくれませんか、と云った。 私は、持ってませんとこたえた。 しかし、名刺をつくる必要性があるということに気がついて、それは甚だよろこばしい発見であった。

序章-章なし
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久坂葉子の誕生と死亡 - 情報

久坂葉子の誕生と死亡

くさかようこのたんじょうとしぼう

文字数 7,570文字

著者リスト:
著者久坂 葉子

底本 久坂葉子作品集 女

青空情報


底本:「久坂葉子作品集 女」六興出版
   1978(昭和53)年12月31日初版発行
   1981(昭和56)年6月30日6刷発行
入力:kompass
校正:松永正敏
2005年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:久坂葉子の誕生と死亡

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