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六の宮の姫君

著者:芥川龍之介

ろくのみやのひめぎみ - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:5,821 底本発行年:1968
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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序章-章なし

六の宮の姫君の父は、古い宮腹みやばらの生れだつた。 が、時勢にも遅れ勝ちな、昔気質むかしかたぎの人だつたから、官も兵部大輔ひやうぶのたいふより昇らなかつた。 姫君はさう云ふ父母ちちははと一しよに、六の宮のほとりにある、木高こだか屋形やかたに住まつてゐた。 六の宮の姫君と云ふのは、その土地の名前につたのだつた。

父母は姫君を寵愛ちようあいした。 しかしやはり昔風に、進んでは誰にもめあはせなかつた。 誰か云ひ寄る人があればと、心待ちに待つばかりだつた。 姫君も父母の教へ通り、つつましい朝夕を送つてゐた。 それは悲しみも知らないと同時に、喜びも知らない生涯だつた。 が、世間見ずの姫君は、格別不満も感じなかつた。 「父母さへ達者でゐてくれれば好い。」 ――姫君はさう思つてゐた。

古い池に枝垂しだれた桜は、年毎に乏しい花を開いた。 その内に姫君も何時いつの間にか、大人寂おとなさびた美しさを具へ出した。 が、頼みに思つた父は、年頃酒を過ごした為に、突然故人になつてしまつた。 のみならず母も半年ほどの内に、返らない歎きを重ねた揚句、とうとう父の跡を追つて行つた。 姫君は悲しいと云ふよりも、途方に暮れずにはゐられなかつた。 実際ふところ子の姫君にはたつた一人の乳母うばの外に、たよるものは何もないのだつた。

乳母はけなげにも姫君の為に、骨身を惜まず働き続けた。 が、家に持ち伝へた螺鈿らでん手筥てばこや白がねの香炉は、何時か一つづつ失はれて行つた。 と同時に召使ひの男女も、誰からか暇をとり始めた。 姫君にも暮らしのつらい事は、だんだんはつきりわかるやうになつた。 しかしそれをどうする事も、姫君の力には及ばなかつた。 姫君は寂しい屋形のたいに、やはり昔と少しも変らず、琴を引いたり歌をんだり、単調な遊びを繰返してゐた。

すると或秋の夕ぐれ、乳母は姫君の前へ出ると、考へ考へこんな事を云つた。

をひの法師の頼みますには、丹波たんば前司ぜんじなにがしの殿が、あなた様に会はせて頂きたいとか申して居るさうでございます。 前司はかたちも美しい上、心ばへも善いさうでございますし、前司の父も受領ずりやうとは申せ、近い上達部かんだちめの子でもございますから、お会ひになつては如何いかがでございませう? かやうに心細い暮しをなさいますよりも、少しはしかと存じますが。 ……」

姫君は忍びに泣き初めた。 その男に肌身を任せるのは、不如意な暮しをたすける為に、体を売るのも同様だつた。 勿論それも世の中には多いと云ふ事は承知してゐた。 が、現在さうなつて見ると、悲しさは又格別だつた。 姫君は乳母と向き合つた儘、くずの葉を吹き返す風の中に、何時までも袖を顔にしてゐた。 ……

しかし姫君は何時の間にか、夜毎に男と会ふやうになつた。 男は乳母の言葉通りやさしい心の持ち主だつた。 顔かたちもさすがにみやびてゐた。

序章-章なし
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六の宮の姫君 - 情報

六の宮の姫君

ろくのみやのひめぎみ

文字数 5,821文字

著者リスト:

底本 現代日本文学大系 43 芥川龍之介集

青空情報


底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:林めぐみ
1998年12月2日公開
2004年3月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:六の宮の姫君

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