序章-章なし
主人の「開会の辞」が終った後、第一の男は語る。
「唯今御主人から御説明がありました通り、今晩のお話は六朝時代から始める筈で、わたくしがその前講を受持つことになりました。
なんといっても、この時代の作で最も有名なものは『捜神記』で、ほとんど後世の小説の祖をなしたと言ってもよろしいのです。
この原本の世に伝わるものは二十巻で、晋の干宝の撰ということになって居ります。
干宝は東晋の元帝に仕えて著作郎となり、博覧強記をもって聞えた人で、ほかに『晋紀』という歴史も書いて居ります。
、但し今日になりますと、干宝が『捜神記』をかいたのは事実であるが、その原本は世に伝わらず、普通に流布するものは偽作である。
たとい全部が偽作でなくても、他人の筆がまじっているという説が唱えられて居ります。
これは清朝初期の学者たちが言い出したものらしく、また一方には、たといそれが干宝の原本でないとしても、六朝時代に作られたものに相違ないのであるから、後世の人間がいい加減にこしらえた偽作とは、その価値が大いに違うという説もあります。
こういうむずかしい穿索になりますと、浅学のわれわれにはとても判りませんから、ともかくも昔から言い伝えの通りに、晋の干宝の撰ということに致して置いて、すぐに本文の紹介に取りかかりましょう」
首の飛ぶ女
秦の時代に、南方に落頭民という人種があった。
その頭がよく飛ぶのである。
その人種の集落に祭りがあって、それを虫落という。
その虫落にちなんで、落頭民と呼ばれるようになったのである。
呉の将、朱桓という将軍がひとりの下婢を置いたが、その女は夜中に睡ると首がぬけ出して、あるいは狗竇から、あるいは窓から出てゆく。
その飛ぶときは耳をもって翼とするらしい。
そばに寝ている者が怪しんで、夜中にその寝床を照らして視ると、ただその胴体があるばかりで首が無い。
からだも常よりは少しく冷たい。
そこで、その胴体に衾をきせて置くと、夜あけに首が舞い戻って来ても、衾にささえられて胴に戻ることが出来ないので、首は幾たびか地に堕ちて、その息づかいも苦しく忙しく、今にも死んでしまいそうに見えるので、あわてて衾を取りのけてやると、首はとどこおりなく元に戻った。
こういうことがほとんど毎夜くり返されるのであるが、昼のあいだは普通の人とちっとも変ることはなかった。
それでも甚だ気味が悪いので、主人の将軍も捨て置かれず、ついに暇を出すことになったが、だんだん聞いてみると、それは一種の天性で別に怪しい者ではないのであった。
このほかにも、南方へ出征の大将たちは、往々こういう不思議の女に出逢った経験があるそうで、ある人は試みに銅盤をその胴体にかぶせて置いたところ、首はいつまでも戻ることが出来ないで、その女は遂に死んだという。
※[#「けものへん+矍」、23-4]猿
蜀の西南の山中には一種の妖物が棲んでいて、その形は猿に似ている。
身のたけは七尺ぐらいで、人の如くに歩み、且つ善く走る。
土地の者はそれを
国といい、又は馬化といい、あるいは※猿[#「けものへん+矍」、23-7]とも呼んでいる。
かれらは山林の茂みに潜んでいて、往来の婦女を奪うのである。
美女は殊に目指される。
それを防ぐために、ここらの人たちが山中を行く時には、長い一条の縄をたずさえて、互いにその縄をつかんで行くのであるが、それでもいつの間にか、その一人または二人を攫って行かれることがしばしばある。
かれらは男と女の臭いをよく知っていて、決して男を取らない。
女を取れば連れ帰って自分の妻とするのであるが、子を生まない者はいつまでも帰ることを許されないので、十年の後には形も心も自然にかれらと同化して、ふたたび里へ帰ろうとはしない。
もし子を生んだ者は、母に子を抱かせて帰すのである。
しかもその子を育てないと、その母もかならず死ぬので、みな恐れて養育することにしているが、成長の後は別に普通の人と変らない。
それらの人間はみな楊という姓を名乗っている。
今日、蜀の西南地方で楊姓を呼ばれている者は、大抵その妖物の子孫であると伝えられている。
琵琶鬼
呉の赤烏三年、句章の農夫楊度という者が余姚というところまで出てゆくと、途中で日が暮れた。
ひとりの少年が琵琶をかかえて来て、楊の車に一緒に載せてくれというので、承知して同乗させると、少年は車中で琵琶数十曲をひいて聞かせた。
楊はいい心持で聴いていると、曲終るや、かの少年は忽ち鬼のような顔色に変じて、眼を瞋らせ、舌を吐いて、楊をおどして立ち去った。