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金魚撩乱

著者:岡本かの子

きんぎょりょうらん - おかもと かのこ

文字数:33,795 底本発行年:1974
著者リスト:
著者岡本 かの子
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序章-章なし

今日も復一はようやく変色し始めた仔魚しぎょを一ぴきひきさらすくい上げ、熱心に拡大鏡でながめていたが、今年もまた失敗か――今年もまた望み通りの金魚はついに出来そうもない。 そうつぶやいて復一は皿と拡大鏡とを縁側えんがわほうり出し、無表情のまま仰向あおむけにどたりとねた。

縁から見るこの谷窪たにくぼの新緑は今がさかりだった。 木の葉ともいえないはなやかさで、こずえは新緑を基調とした紅茶系統からややむらさきがかった若葉の五色の染め分けをさばいている。 それが風にらぐと、反射でなめらかながけの赤土の表面が金屏風きんびょうぶのようにひらめく。 五六じょうも高い崖の傾斜けいしゃのところどころに霧島きりしまつつじがいている。

崖の根を固めている一帯の竹藪たけやぶかげから、じめじめした草叢くさむらがあって、晩咲おそざきの桜草さくらそうや、早咲きの金蓮花きんれんかが、小さい流れの岸まで、まだらに咲き続いている。 小流れは谷窪からく自然の水で、復一のような金魚飼育商しいくしょうにとっては、第一に稼業かぎょうりどころにもなるものだった。 その水をえだにひいて、七つ八つの金魚池があった。 池は葭簾よしずおおったのもあり、露出ろしゅつしたのもあった。 たくましい水音を立てて、崖とは反対の道路の石垣いしがきの下を大溝おおどぶが流れている。 これは市中の汚水おすいを集めてにごっている。

復一が六年前地方の水産試験所を去って、この金魚屋の跡取あととりとして再び育ての親達にむかえられて来たときも、まだこの谷窪に晩春の花々が咲き残っていたころだった。

復一は生れて地方の水産学校へ出る青年期までここに育ちながら、今更いまさらのように、「東京は山の手にこんな桃仙境とうせんきょうがあるのだった」と気がついた。 そしてこの谷窪をめる金魚屋の主人になるのをよろこんだ。 だが、それから六年後の今、このやわらかい景色けしきや水音を聞いても、かれはかえって彼のかたくなになったこころを一層枯燥こそうさせる反対の働きを受けるようになった。 彼は無表情のを挙げて、崖の上を見た。

芝生しばふはしさがっている崖の上の広壮な邸園ていえん一端いったんにロマネスクの半円祠堂しどうがあって、一本一本の円柱は六月のを受けてあざやかに紫薔薇色ばらいろかげをくっきりつけ、その一本一本の間から高い蒼空あおぞらかしていた。 白雲がはるか下界のこの円柱をけたにして、ゆったり空をわたるのが見えた。

今日も半円祠堂のまんなかの腰掛こしかけには崖邸の夫人真佐子まさこが豊かな身体からだつきをそびやかして、日光を胸で受止めていた。 ひざの上には遠目にも何か編みかけらしい糸の乱れが乗っていて、それへななめにうっとりとした女の子がもたれかかっていた。 それはおよそ復一の気持とは縁のない幸福そのものの図だった。 真佐子はかなりの近視で、こちらの姿は眼に入らなかろうが、こちらからはあまりに毎日見馴みなれて、復一にはことさら心を刺戟しげきされる図でもなかったが、嫉妬しっと羨望せんぼうか未練か、とにかくこの図に何かの感情を寄せて、こころをき立たさなければ、心が動きも止りもしないような男に復一はなっていた。

「ああ今日もまたあの図を見なくってはならないのか。 自分とは全く無関係に生きほこって行く女。 自分には運命的に思い切れない女――。」

復一はむっくり起き上って、煙草たばこに火をつけた。

その頃、崖邸のおじょうさんと呼ばれていた真佐子は、あまり目立たない少女だった。 無口で俯向うつむがちで、くせにはよく片唇かたくちびるんでいた。 母親は早くからなくして父親育ての一人娘ひとりむすめなので、はたがかえってさびしい娘に見るのかも知れない。 当の真佐子は別にじくじく一つ事を考えているらしくもなくて、それでいて外界の刺戟に対して、極めておそい反応を示した。 復一の家へ小さいバケツを提げて一人で金魚を買いに来た帰りに、犬の子にでもいかけられるような場合には、あわてる割にはかのゆかない体の動作をして、だが、げ出すとなると必要以上の安全な距離きょりまでも逃げて行って、そこで落付いてから、また今更のように恐怖きょうふの感情を眼の色にほとばしらした。 その無技巧むぎこうの丸い眼と、特殊とくしゅの動作とから、復一の養い親の宗十郎は、大事なお得意の令嬢だから大きな声ではいえないがと断って、

「まるで、金魚の蘭鋳らんちゅうだ」

と笑った。

漠然ばくぜんとした階級意識から崖邸の人間に反感を持っている崖下の金魚屋の一家は、復一が小学校の行きかえりなどに近所同志の子供仲間として真佐子を目のかたきいじめるのを、あまりたしなめもしなかった。 たまたま崖邸から女中が来て、苦情を申立てて行くと、その場はあやまって受容うけいれる様子を見せ、女中が帰ると親達は他所事よそごとのように、復一に小言はおろか復一の方を振り返っても見なかった。

それをよいことにして復一の変態的な苛め方はだんだんはげしくなった。 子供にしてはませた、女の貞操ていそうを非難するようないいがかりをつけて真佐子にからまった。

序章-章なし
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金魚撩乱 - 情報

金魚撩乱

きんぎょりょうらん

文字数 33,795文字

著者リスト:

底本 ちくま日本文学全集 岡本かの子

親本 岡本かの子全集 第三巻

青空情報


底本:「ちくま日本文学全集 岡本かの子」筑摩書房
   1992年(平成4)2月20日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第三巻」冬樹社
   1974(昭和49)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大石純子
校正:門田裕志
2003年2月27日作成
2011年2月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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