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おしの

著者:芥川龍之介

おしの - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:4,116 底本発行年:1971
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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序章-章なし

ここは南蛮寺なんばんじの堂内である。 ふだんならばまだ硝子画ガラスえの窓に日の光の当っている時分であろう。 が、今日は梅雨曇つゆぐもりだけに、日の暮の暗さと変りはない。 その中にただゴティック風の柱がぼんやり木のはだを光らせながら、高だかとレクトリウムを守っている。 それからずっと堂の奥に常燈明じょうとうみょう油火あぶらびが一つ、がんの中にたたずんだ聖者の像を照らしている。 参詣人はもう一人もいない。

そう云う薄暗い堂内に紅毛人こうもうじん神父しんぷが一人、祈祷きとうの頭をれている。 年は四十五六であろう。 額のせまい、顴骨かんこつの突き出た、頬鬚ほおひげの深い男である。 ゆかの上に引きずった着物は「あびと」ととなえる僧衣らしい。 そう云えば「こんたつ」ととなえる念珠ねんじゅ手頸てくび一巻ひとまき巻いたのち、かすかに青珠あおたまを垂らしている。

堂内は勿論ひっそりしている。 神父はいつまでも身動きをしない。

そこへ日本人の女が一人、静かに堂内へはいって来た。 もんを染めた古帷子ふるかたびらに何か黒い帯をしめた、武家ぶけの女房らしい女である。 これはまだ三十代であろう。 が、ちょいと見たところは年よりはずっとふけて見える。 第一妙に顔色が悪い。 目のまわりも黒いかさをとっている。 しかし大体だいたいの目鼻だちは美しいと言っても差支えない。 いや、端正に過ぎる結果、むしろけんのあるくらいである。

女はさも珍らしそうに聖水盤せいすいばんや祈祷机を見ながら、ず堂の奥へ歩み寄った。 すると薄暗い聖壇の前に神父が一人ひざまずいている。 女はやや驚いたように、ぴたりとそこへ足を止めた。 が、相手の祈祷していることはただちにそれと察せられたらしい。 女は神父を眺めたまま、黙然もくねんとそこにたたずんでいる。

堂内は不相変あいかわらずひっそりしている。 神父も身動きをしなければ、女もまゆ一つ動かさない。 それがかなり長いあいだであった。

その内に神父は祈祷をやめると、やっとゆかから身を起した。 見れば前には女が一人、何か云いたげにたたずんでいる。 南蛮寺なんばんじの堂内へはただ見慣れぬ磔仏はりきぼとけを見物に来るものもまれではない。 しかしこの女のここへ来たのは物好きだけではなさそうである。 神父はわざと微笑しながら、片言かたことに近い日本語を使った。

「何か御用ですか?」

「はい、少々お願いの筋がございまして。」

女は慇懃いんぎん会釈えしゃくをした。 貧しい身なりにもかかわらず、これだけはちゃんとい上げた笄髷こうがいまげの頭を下げたのである。 神父は微笑ほほえんだ眼に目礼もくれいした。

序章-章なし
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おしの - 情報

おしの

おしの

文字数 4,116文字

著者リスト:

底本 芥川龍之介全集5

親本 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集

青空情報


底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
初出:「中央公論」
   1923(大正12)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月5日公開
2012年3月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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