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或日の大石内蔵助

著者:芥川龍之介

あるひのおおいしくらのすけ - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:8,788 底本発行年:1971
著者リスト:
著者:芥川 竜之介
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序章-章なし

立てきった障子(しょうじ)にはうららかな日の光がさして、嵯峨(さが)たる老木の梅の影が、何間(なんげん)かの明(あかる)みを、右の端から左の端まで画の如く鮮(あざやか)に領している。 元浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)家来、当時細川家(ほそかわけ)に御預り中の大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしかつ)は、その障子を後(うしろ)にして、端然と膝を重ねたまま、さっきから書見に余念がない。 書物は恐らく、細川家の家臣の一人が借してくれた三国誌の中の一冊であろう。

九人一つ座敷にいる中(うち)で、片岡源五右衛門(かたおかげんごえもん)は、今し方厠(かわや)へ立った。 早水藤左衛門(はやみとうざえもん)は、下(しも)の間(ま)へ話しに行って、未(いまだ)にここへ帰らない。 あとには、吉田忠左衛門(よしだちゅうざえもん)、原惣右衛門(はらそうえもん)、間瀬久太夫(ませきゅうだゆう)、小野寺十内(おのでらじゅうない)、堀部弥兵衛(ほりべやへえ)、間喜兵衛(はざまきへえ)の六人が、障子にさしている日影も忘れたように、あるいは書見に耽(ふけ)ったり、あるいは消息を認(したた)めたりしている。 その六人が六人とも、五十歳以上の老人ばかり揃っていたせいか、まだ春の浅い座敷の中は、肌寒いばかりにもの静(しずか)である。 時たま、しわぶきの声をさせるものがあっても、それは、かすかに漂(ただよ)っている墨の匂(におい)を動かすほどの音さえ立てない。

内蔵助(くらのすけ)は、ふと眼を三国誌からはなして、遠い所を見るような眼をしながら、静に手を傍(かたわら)の火鉢の上にかざした。 金網(かなあみ)をかけた火鉢の中には、いけてある炭の底に、うつくしい赤いものが、かんがりと灰を照らしている。 その火気を感じると、内蔵助の心には、安らかな満足の情が、今更のようにあふれて来た。 丁度、去年の極月(ごくげつ)十五日に、亡君の讐(あだ)を復して、泉岳寺(せんがくじ)へ引上げた時、彼自(みずか)ら「あらたのし思いははるる身はすつる、うきよの月にかかる雲なし」と詠じた、その時の満足が帰って来たのである。

赤穂(あこう)の城を退去して以来、二年に近い月日を、如何(いか)に彼は焦慮と画策(かくさく)との中(うち)に、費(ついや)した事であろう。 動(やや)もすればはやり勝ちな、一党の客気(かっき)を控制(こうせい)して、徐(おもむろ)に機の熟するのを待っただけでも、並大抵(なみたいてい)な骨折りではない。 しかも讐家(しゅうか)の放った細作(さいさく)は、絶えず彼の身辺を窺(うかが)っている。 彼は放埓(ほうらつ)を装って、これらの細作の眼を欺くと共に、併せてまた、その放埓に欺かれた同志の疑惑をも解かなければならなかった。 山科(やましな)や円山(まるやま)の謀議の昔を思い返せば、当時の苦衷が再び心の中によみ返って来る。 ――しかし、もうすべては行く処へ行きついた。

もし、まだ片のつかないものがあるとすれば、それは一党四十七人に対する、公儀(こうぎ)の御沙汰(ごさた)だけである。 が、その御沙汰があるのも、いずれ遠い事ではないのに違いない。 そうだ。 すべては行く処へ行きついた。 それも単に、復讐の挙が成就(じょうじゅ)したと云うばかりではない。 すべてが、彼の道徳上の要求と、ほとんど完全に一致するような形式で成就した。 彼は、事業を完成した満足を味ったばかりでなく、道徳を体現した満足をも、同時に味う事が出来たのである。 しかも、その満足は、復讐の目的から考えても、手段から考えても、良心の疚(やま)しさに曇らされる所は少しもない。 彼として、これ以上の満足があり得ようか。 ……

こう思いながら、内蔵助(くらのすけ)は眉をのべて、これも書見に倦(う)んだのか、書物を伏せた膝の上へ、指で手習いをしていた吉田忠左衛門に、火鉢のこちらから声をかけた。

「今日(きょう)は余程暖いようですな。」

「さようでございます。 こうして居りましても、どうかすると、あまり暖いので、睡気(ねむけ)がさしそうでなりません。」

内蔵助は微笑した。 この正月の元旦に、富森助右衛門(とみのもりすけえもん)が、三杯の屠蘇(とそ)に酔って、「今日も春恥しからぬ寝武士かな」と吟じた、その句がふと念頭に浮んだからである。 句意も、良雄(よしかつ)が今感じている満足と変りはない。

「やはり本意を遂(と)げたと云う、気のゆるみがあるのでございましょう。」

「さようさ。 それもありましょう。」

忠左衛門は、手もとの煙管(きせる)をとり上げて、つつましく一服の煙を味った。

序章-章なし
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或日の大石内蔵助 - 情報

或日の大石内蔵助

あるひのおおいしくらのすけ

文字数 8,788文字

著者リスト:

底本 芥川龍之介全集2

親本 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集

青空情報


底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:野口英司
校正:もりみつじゅんじ
1997年11月17日公開
2004年3月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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