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おぎん

著者:芥川龍之介

おぎん - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:5,211 底本発行年:1971
著者リスト:
著者:芥川 竜之介
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序章-章なし

元和(げんな)か、寛永(かんえい)か、とにかく遠い昔である。

天主(てんしゅ)のおん教を奉ずるものは、その頃でももう見つかり次第、火炙(ひあぶ)りや磔(はりつけ)に遇(あ)わされていた。 しかし迫害が烈しいだけに、「万事にかない給うおん主(あるじ)」も、その頃は一層この国の宗徒(しゅうと)に、あらたかな御加護(おんかご)を加えられたらしい。 長崎(ながさき)あたりの村々には、時々日の暮の光と一しょに、天使や聖徒の見舞う事があった。 現にあのさん・じょあん・ばちすたさえ、一度などは浦上(うらかみ)の宗徒(しゅうと)みげる弥兵衛(やへえ)の水車小屋に、姿を現したと伝えられている。 と同時に悪魔もまた宗徒の精進(しょうじん)を妨(さまた)げるため、あるいは見慣れぬ黒人(こくじん)となり、あるいは舶来(はくらい)の草花(くさばな)となり、あるいは網代(あじろ)の乗物となり、しばしば同じ村々に出没した。 夜昼さえ分たぬ土の牢(ろう)に、みげる弥兵衛を苦しめた鼠(ねずみ)も、実は悪魔の変化(へんげ)だったそうである。 弥兵衛は元和八年の秋、十一人の宗徒と火炙(ひあぶ)りになった。 ――その元和か、寛永か、とにかく遠い昔である。

やはり浦上の山里村(やまざとむら)に、おぎんと云う童女が住んでいた。 おぎんの父母(ちちはは)は大阪(おおさか)から、はるばる長崎へ流浪(るろう)して来た。 が、何もし出さない内に、おぎん一人を残したまま、二人とも故人になってしまった。 勿論(もちろん)彼等他国ものは、天主のおん教を知るはずはない。 彼等の信じたのは仏教である。 禅(ぜん)か、法華(ほっけ)か、それともまた浄土(じょうど)か、何(なに)にもせよ釈迦(しゃか)の教である。 ある仏蘭西(フランス)のジェスウイットによれば、天性奸智(かんち)に富んだ釈迦は、支那(シナ)各地を遊歴しながら、阿弥陀(あみだ)と称する仏の道を説いた。 その後(ご)また日本の国へも、やはり同じ道を教(おしえ)に来た。 釈迦(しゃか)の説いた教によれば、我々人間の霊魂(アニマ)は、その罪の軽重(けいちょう)深浅に従い、あるいは小鳥となり、あるいは牛となり、あるいはまた樹木となるそうである。 のみならず釈迦は生まれる時、彼の母を殺したと云う。 釈迦の教の荒誕(こうたん)なのは勿論、釈迦の大悪(だいあく)もまた明白である。 (ジアン・クラッセ)しかしおぎんの母親は、前にもちょいと書いた通り、そう云う真実を知るはずはない。 彼等は息を引きとった後(のち)も、釈迦の教を信じている。 寂しい墓原(はかはら)の松のかげに、末は「いんへるの」に堕(お)ちるのも知らず、はかない極楽を夢見ている。

しかしおぎんは幸いにも、両親の無知に染まっていない。 これは山里村(やまざとむら)居(い)つきの農夫、憐(あわれ)みの深いじょあん孫七(まごしち)は、とうにこの童女の額へ、ばぷちずものおん水を注いだ上、まりやと云う名を与えていた。 おぎんは釈迦が生まれた時、天と地とを指しながら、「天上天下(てんじょうてんげ)唯我独尊(ゆいがどくそん)」と獅子吼(ししく)した事などは信じていない。 その代りに、「深く御柔軟(ごにゅうなん)、深く御哀憐(ごあいれん)、勝(すぐ)れて甘(うまし)くまします童女さんた・まりあ様」が、自然と身ごもった事を信じている。 「十字架(くるす)に懸(かか)り死し給い、石の御棺(ぎょかん)に納められ給い、」大地の底に埋められたぜすすが、三日の後(のち)よみ返った事を信じている。 御糺明(ごきゅうめい)の喇叭(らっぱ)さえ響き渡れば、「おん主(あるじ)、大いなる御威光(ごいこう)、大いなる御威勢(ごいせい)を以て天下(あまくだ)り給い、土埃(つちほこり)になりたる人々の色身(しきしん)を、もとの霊魂(アニマ)に併(あわ)せてよみ返し給い、善人は天上の快楽(けらく)を受け、また悪人は天狗(てんぐ)と共に、地獄に堕(お)ち」る事を信じている。 殊に「御言葉(みことば)の御聖徳(ごしょうとく)により、ぱんと酒の色形(いろかたち)は変らずといえども、その正体(しょうたい)はおん主(あるじ)の御血肉(おんけつにく)となり変る」尊いさがらめんとを信じている。 おぎんの心は両親のように、熱風に吹かれた沙漠(さばく)ではない。 素朴(そぼく)な野薔薇(のばら)の花を交(まじ)えた、実りの豊かな麦畠である。 おぎんは両親を失った後、じょあん孫七の養女になった。 孫七の妻、じょあんなおすみも、やはり心の優しい人である。 おぎんはこの夫婦と一しょに、牛を追ったり麦を刈ったり、幸福にその日を送っていた。 勿論そう云う暮しの中にも、村人の目に立たない限りは、断食や祈祷(きとう)も怠った事はない。 おぎんは井戸端(いどばた)の無花果(いちじく)のかげに、大きい三日月(みかづき)を仰ぎながら、しばしば熱心に祈祷を凝(こ)らした。 この垂れ髪の童女の祈祷は、こう云う簡単なものなのである。

「憐みのおん母、おん身におん礼をなし奉る。

序章-章なし
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おぎん - 情報

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文字数 5,211文字

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底本 芥川龍之介全集5

親本 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集

青空情報


底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月5日公開
2004年3月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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