ピアノ
著者:芥川龍之介
ピアノ - あくたがわ りゅうのすけ
文字数:1,374 底本発行年:1996
或雨のふる秋の日、わたしは或人を訪ねる為に横浜の山手を歩いて行つた。
この辺の荒廃は震災当時と殆ど変つてゐなかつた。
若し少しでも変つてゐるとすれば、それは一面にスレヱトの屋根や煉瓦の壁の落ち重なつた中に
わたしはわたしの訪ねた人と或こみ入つた用件を話した。 話は容易に片づかなかつた。 わたしはとうとう夜に入つた後、やつとその人の家を辞することにした。 それも近近にもう一度面談を約した上のことだつた。
雨は幸ひにも上つてゐた。 おまけに月も風立つた空に時々光を洩らしてゐた。 わたしは汽車に乗り遅れぬ為に(煙草の吸はれぬ省線電車は勿論わたしには禁もつだつた。)出来るだけ足を早めて行つた。
すると突然聞えたのは誰かのピアノを打つた音だつた。 いや、「打つた」と言ふよりも寧ろ触つた音だつた。 わたしは思はず足をゆるめ、荒涼としたあたりを眺めまはした。 ピアノは丁度月の光に細長い鍵盤を仄めかせてゐた、あの藜の中にあるピアノは。 ――しかし人かげはどこにもなかつた。
それはたつた一
わたしはこのピアノの音に超自然の解釈を加へるには余りにリアリストに違ひなかつた。 成程人かげは見えなかつたにしろ、あの崩れた壁のあたりに猫でも潜んでゐたかも知れない。 若し猫ではなかつたとすれば、――わたしはまだその外にも鼬だの蟇がへるだのを数へてゐた。 けれども兎に角人手を借らずにピアノの鳴つたのは不思議だつた。
五日ばかりたつた後、わたしは同じ用件の為に同じ山手を通りかゝつた。 ピアノは不相変ひつそりと藜の中に蹲つてゐた。 桃色、水色、薄黄色などの譜本の散乱してゐることもやはりこの前に変らなかつた。 只けふはそれ等は勿論、崩れ落ちた煉瓦やスレヱトも秋晴れの日の光にかがやいてゐた。
わたしは譜本を踏まぬやうにピアノの前へ歩み寄つた。 ピアノは今目のあたりに見れば、鍵盤の象牙も光沢を失ひ、蓋の漆も剥落してゐた。 殊に脚には海老かづらに似た一すぢの蔓草もからみついてゐた。 わたしはこのピアノを前に何か失望に近いものを感じた。
「第一これでも鳴るのかしら。」
わたしはかう独り語を言つた。 するとピアノはその拍子に忽ちかすかに音を発した。 それは殆どわたしの疑惑を叱つたかと思ふ位だつた。