• URLをコピーしました!

婦系図

著者:泉鏡花

おんなけいず - いずみ きょうか

文字数:170,110 底本発行年:1940
著者リスト:
著者泉 鏡花
底本: 泉鏡花集成12
0
0
0


序章-章なし

鯛、比目魚

素顔に口紅でうつくしいから、その色にまがうけれども、可愛いは、唇が鳴るのではない。 つたは、皓歯しらは酸漿ほおずきを含んでいる。 ……

「早瀬の細君レコはちょうど(二十はたち)と見えるが三だとサ、その年紀としで酸漿を鳴らすんだもの、大概素性も知れたもんだ、」と四辺あたり近所は官員つとめにんの多い、屋敷町の夫人おくさま連が風説うわさをする。

すでに昨夜ゆうべも、神楽坂の縁日に、桜草を買ったついでに、いのをって、昼夜帯の間に挟んで帰った酸漿を、隣家となりの娘――女学生に、一ツ上げましょう、と言って、そんな野蛮なものは要らないわ! とねられて、利いた風な、と口惜くやしがった。

面当つらあてというでもあるまい。 あたかもその隣家となりの娘の居間と、垣一ツ隔てたこの台所、腰障子の際に、懐手でたたずんで、何だか所在なさそうに、しきりに酸漿を鳴らしていたが、ふと銀杏返いちょうがえしのほつれたびんを傾けて、目をぱっちりと開けて何かを聞澄ますようにした。

コロコロコロコロ、クウクウコロコロと声がする。 唇の鳴るのに連れて。

ちょいと吹留ふきやむと、今は寂寞しんとして、その声が止まって、ぼッと腰障子へ暖う春の日は当るが、軒を伝う猫もらず、雀の影もささぬ。

鼠かと思ったそうで、ななめに棚の上を見遣みやったが、鍋も重箱もかたりとも云わず、古新聞がまたがさりともせぬ。

四辺あたりを見ながら、うっかり酸漿に歯が触る。 とそのかすかにも直ちに応じて、コロコロ。 少し心着いて、続けざまに吹いて見れば、透かさずクウクウ、調子を合わせる。

聞き定めて、

「おや、」と云って、一段下流しもながしの板敷へ下りると、お源と云う女中が、今しがたここからけ出して、玄関の来客を取次いだ草履が一ツ。 ぞんざいに黒い裏を見せてひっくり返っているのを、白い指でちょいと直し、素足に引懸ひっかけ、がたり腰障子を左へ開けると、十時過ぎの太陽が、向うの井戸端の、柳の上からはすっかけに、あまね射込さしこんで、まないたの上に揃えた、菠薐草ほうれんそうの根を、くれないに照らしたばかり。

多分はそれだろう、口真似くちまねをするのは、と当りをつけた御用聞きの酒屋の小僧は、どこにも隠れているのではなかった。

眉をひそめながら、その癖恍惚うっとりした、迫らない顔色かおつきで、今度は口ずさむと言うよりもわざと試みにククと舌のさきで音を入れる。 響に応じて、コロコロとったが、こっちは一吹きで控えたのに、先方さき発奮はずんだと見えて、コロコロコロ。

これを聞いて、かがんで、板へ敷く半纏はんてんすそ掻取かいとり、膝に挟んだ下交したがいつま内端うちわに、障子腰から肩を乗出すようにして、つい目のさきの、下水の溜りに目を着けた。

もとより、溝板どぶいたふたがあるから、ものの形は見えぬけれども、やさし連弾つれびきはまさしくその中。

えみを含んで、クウクウと吹き鳴らすと、コロコロと拍子を揃えて、近づいただけ音を高く、調子が冴えてカタカタカタ!

「蛙だね。」

莞爾にっこりした、その唇の紅を染めたように、酸漿を指に取って、衣紋えもんかろちながら、

「憎らしい、お源や…………」

来て御覧、と呼ぼうとして、声が出たのを、おさえて酸漿をまた吸った。

ククと吹く、カタカタ、ククと吹く、カタカタ、蝶々の羽で三味線さみせんの胴をうつかと思われつつ、静かにくる春の日や、お蔦の袖に二三寸。

「おう、」と突込つっこんで長く引いた、遠くから威勢のい声。

来たのは江戸前の魚屋で。

ここへ、台所と居間の隔てを開け、茶菓子を運んで、二階から下りたお源という、小柄こがらい島田の女中が、逆上のぼせたような顔色かおつきで、

「奥様、魚屋が参りました。」

「大きな声をおしでないよ。」

とお蔦は振向いて低声こごえたしなめ、お源が背後うしろから通るように、身を開きながら、

「聞こえるじゃないか。」

目配せをすると、お源は莞爾にっこりして俯向うつむいたが、ほんのりあかくした顔を勝手口から外へ出して路地のうちを目迎える。

序章-章なし
━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

婦系図 - 情報

婦系図

おんなけいず

文字数 170,110文字

著者リスト:
著者泉 鏡花

底本 泉鏡花集成12

親本 鏡花全集 第十卷

青空情報


底本:「泉鏡花集成12」ちくま文庫、筑摩書房
   1997(平成9)年1月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十卷」岩波書店
   1940(昭和15)年5月15日
初出:「やまと新聞」
   1907(明治40)年1〜4月
入力:真先芳秋
校正:かとうかおり
2000年8月17日公開
2009年2月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:婦系図

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!