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一夜

著者:夏目漱石

いちや - なつめ そうせき

文字数:5,996 底本発行年:1971
著者リスト:
著者:夏目 漱石
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序章-章なし

「美くしき多くの人の、美くしき多くの夢を……」と髯(ひげ)ある人が二たび三たび微吟(びぎん)して、あとは思案の体(てい)である。 灯(ひ)に写る床柱(とこばしら)にもたれたる直(なお)き背(せ)の、この時少しく前にかがんで、両手に抱(いだ)く膝頭(ひざがしら)に険(けわ)しき山が出来る。 佳句(かく)を得て佳句を続(つ)ぎ能(あた)わざるを恨(うら)みてか、黒くゆるやかに引ける眉(まゆ)の下より安からぬ眼の色が光る。

「描(えが)けども成らず、描けども成らず」と椽(えん)に端居(はしい)して天下晴れて胡坐(あぐら)かけるが繰り返す。 兼ねて覚えたる禅語(ぜんご)にて即興なれば間に合わすつもりか。 剛(こわ)き髪を五分(ぶ)に刈りて髯貯(たくわ)えぬ丸顔を傾けて「描けども、描けども、夢なれば、描けども、成りがたし」と高らかに誦(じゅ)し了(おわ)って、からからと笑いながら、室(へや)の中なる女を顧(かえり)みる。

竹籠(たけかご)に熱き光りを避けて、微(かす)かにともすランプを隔てて、右手に違い棚、前は緑り深き庭に向えるが女である。

「画家ならば絵にもしましょ。 女ならば絹を枠(わく)に張って、縫いにとりましょ」と云いながら、白地の浴衣(ゆかた)に片足をそと崩(くず)せば、小豆皮(あずきがわ)の座布団(ざぶとん)を白き甲が滑(すべ)り落ちて、なまめかしからぬほどは艶(えん)なる居ずまいとなる。

「美しき多くの人の、美しき多くの夢を……」と膝(ひざ)抱(いだ)く男が再び吟じ出すあとにつけて「縫いにやとらん。 縫いとらば誰に贈らん。 贈らん誰に」と女は態(わざ)とらしからぬ様(さま)ながらちょと笑う。 やがて朱塗の団扇(うちわ)の柄(え)にて、乱れかかる頬(ほお)の黒髪をうるさしとばかり払えば、柄(え)の先につけたる紫のふさが波を打って、緑り濃き香油の薫(かお)りの中に躍(おど)り入る。

「我に贈れ」と髯なき人が、すぐ言い添えてまたからからと笑う。 女の頬には乳色の底から捕えがたき笑の渦(うず)が浮き上って、瞼(まぶた)にはさっと薄き紅(くれない)を溶(と)く。

「縫えばどんな色で」と髯あるは真面目(まじめ)にきく。

「絹買えば白き絹、糸買えば銀の糸、金の糸、消えなんとする虹(にじ)の糸、夜と昼との界(さかい)なる夕暮の糸、恋の色、恨(うら)みの色は無論ありましょ」と女は眼をあげて床柱(とこばしら)の方を見る。 愁(うれい)を溶(と)いて錬(ね)り上げし珠(たま)の、烈(はげ)しき火には堪(た)えぬほどに涼しい。 愁の色は昔(むか)しから黒である。

隣へ通う路次(ろじ)を境に植え付けたる四五本の檜(ひのき)に雲を呼んで、今やんだ五月雨(さみだれ)がまたふり出す。 丸顔の人はいつか布団(ふとん)を捨てて椽(えん)より両足をぶら下げている。 「あの木立(こだち)は枝を卸(おろ)した事がないと見える。 梅雨(つゆ)もだいぶ続いた。 よう飽きもせずに降るの」と独(ひと)り言(ごと)のように言いながら、ふと思い出した体(てい)にて、吾(わ)が膝頭(ひざがしら)を丁々(ちょうちょう)と平手をたてに切って敲(たた)く。 「脚気(かっけ)かな、脚気かな」

残る二人は夢の詩か、詩の夢か、ちょと解しがたき話しの緒(いとぐち)をたぐる。

「女の夢は男の夢よりも美くしかろ」と男が云えば「せめて夢にでも美くしき国へ行かねば」とこの世は汚(けが)れたりと云える顔つきである。 「世の中が古くなって、よごれたか」と聞けば「よごれました」と※(「糸+丸」、第3水準1-89-90)扇(がんせん)に軽(かろ)く玉肌(ぎょっき)を吹く。 「古き壺(つぼ)には古き酒があるはず、味(あじわ)いたまえ」と男も鵞鳥(がちょう)の翼(はね)を畳(たた)んで紫檀(したん)の柄(え)をつけたる羽団扇(はうちわ)で膝のあたりを払う。 「古き世に酔えるものなら嬉(うれ)しかろ」と女はどこまでもすねた体である。

この時「脚気かな、脚気かな」としきりにわが足を玩(もてあそ)べる人、急に膝頭をうつ手を挙(あ)げて、叱(しっ)と二人を制する。 三人の声が一度に途切れる間をククーと鋭どき鳥が、檜の上枝(うわえだ)を掠(かす)めて裏の禅寺の方へ抜ける。 ククー。

「あの声がほととぎすか」と羽団扇を棄(す)ててこれも椽側(えんがわ)へ這(は)い出す。 見上げる軒端(のきば)を斜めに黒い雨が顔にあたる。 脚気を気にする男は、指を立てて坤(ひつじさる)の方(かた)をさして「あちらだ」と云う。 鉄牛寺(てつぎゅうじ)の本堂の上あたりでククー、ククー。

「一声(ひとこえ)でほととぎすだと覚(さと)る。 二声で好い声だと思うた」と再び床柱に倚(よ)りながら嬉しそうに云う。

序章-章なし
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一夜 - 情報

一夜

いちや

文字数 5,996文字

著者リスト:
著者:夏目 漱石

底本 夏目漱石全集2

親本 筑摩全集類聚版夏目漱石全集

青空情報


底本:「夏目漱石全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年10月27日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
※底本本文では、「」は、「虫+嘯のつくり」とつくってある。しかし、底本の注記では、つくりにくさかんむりのある「」が用いられている。下記の異本とも照合の上、当該の箇所は「」で入力した。
   「倫敦塔・幻影の盾」岩波文庫、岩波書店
   1930(昭和5)年12月20日第1刷発行
   1990(平成2)年4月16日第23刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第30刷発行
   「倫敦塔・幻影の盾」新潮文庫、新潮社
   1952(昭和27)年7月10日初版発行
   1968(昭和43)年9月15日20刷改版発行
   1997(平成9)年4月25日69刷発行
入力:柴田卓治
校正:LUNA CAT
2000年9月11日公開
2011年12月5日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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