如是我聞
著者:太宰治
にょぜがもん - だざい おさむ
文字数:22,721 底本発行年:1980
一
他人を攻撃したって、つまらない。 攻撃すべきは、あの者たちの神だ。 敵の神をこそ撃つべきだ。 でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。 ひとは、自分の真の神をよく隠す。
これは、仏人ヴァレリイの
私は、最初にヴァレリイの呟きを持ち出したが、それは、毒を以って毒を制するという気持もない訳ではないのだ。
私のこれから撃つべき相手の者たちの大半は、たとえばパリイに二十年前に留学し、或いは母ひとり子ひとり、家計のために、いまはフランス文学大受け、孝行息子、かせぐ夫、それだけのことで、やたらと仏人の名前を書き連ねて以て、
それでは、私は今月は何を言うべきであろうか。 ダンテの地獄篇の初めに出てくる(名前はいま、たしかな事は忘れた)あのエルギリウスとか何とかいう老詩人の如く、余りに久しくもの言わざりしにより声しわがれ、急に、諸君の眠りを覚ます程の水際立った響きのことは書けないかも知れないが、次第に諸君の共感を得る筈だと確信して、こうして書いているのだ。 そうでもなければ、この紙不足の時代に、わざわざ書くてもないだろう、ではないか。
一群の「老大家」というものがある。 私は、その者たちの一人とも面接の機会を得たことがない。 私は、その者たちの自信の強さにあきれている。 彼らの、その確信は、どこから出ているのだろう。 所謂、彼らの神は何だろう。 私は、やっとこの頃それを知った。
家庭である。
家庭のエゴイズムである。
それが結局の祈りである。 私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。 ゲスな言い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。
私は、或る「老大家」の小説を読んでみた。 何のことはない、周囲のごひいきのお好みに応じた表情を、キッとなって構えて見せているだけであった。 軽薄も極まっているのであるが、馬鹿者は、それを「立派」と言い、「潔癖」と言い、ひどい者は、「貴族的」なぞと言ってあがめているようである。
世の中をあざむくとは、この者たちのことを言うのである。 軽薄ならば、軽薄でかまわないじゃないか。 何故、自分の本質のそんな軽薄を、他の質と置き換えて見せつけなければいけないのか。 軽薄を非難しているのではない。 私だって、この世の最も軽薄な男ではないかしらと考えている。 何故、それを、他の質とまぎらわせなければいけないのか、私にはどうしても、不可解なのだ。
わびしさ。