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著者:芥川龍之介

ねぎ - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:8,116 底本発行年:1971
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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序章-章なし

おれは締切日を明日みょうにちに控えた今夜、一気呵成かせいにこの小説を書こうと思う。 いや、書こうと思うのではない。 書かなければならなくなってしまったのである。 では何を書くかと云うと、――それは次の本文を読んで頂くよりほかに仕方はない。

―――――――――――――――――――――――――

神田かんだ神保町辺じんぼうちょうへんのあるカッフェに、おきみさんと云う女給仕がいる。 年は十五とか十六とか云うが、見た所はもっと大人おとならしい。 何しろ色が白くって、眼が涼しいから、鼻の先が少し上を向いていても、とにかく一通りの美人である。 それが髪をまん中から割って、忘れな草のかんざしをさして、白いエプロンをかけて、自働ピアノの前に立っている所は、とんと竹久夢二たけひさゆめじ君の画中の人物が抜け出したようだ。 ――とか何とか云う理由から、このカッフェの定連じょうれんの間には、つとに通俗小説と云う渾名あだなが出来ているらしい。 もっとも渾名あだなにはまだいろいろある。 簪の花が花だから、わすれな草。 活動写真に出る亜米利加アメリカの女優に似ているから、ミス・メリイ・ピックフォオド。 このカッフェに欠くべからざるものだから、角砂糖。 ETC. ETC.

この店にはお君さんのほかにも、もう一人年上の女給仕がある。 これはおまつさんと云って、器量きりょうは到底お君さんの敵ではない。 まず白麺麭パンと黒麺麭ほどの相違がある。 だから一つカッフェに勤めていても、お君さんとお松さんとでは、祝儀の収入が非常に違う。 お松さんは勿論、この収入の差にたいらかなるを得ない。 その不平がこうじた所から、邪推もこの頃廻すようになっている。

ある夏の午後、お松さんの持ち場の卓子テエブルにいた外国語学校の生徒らしいのが、巻煙草まきたばこを一本くわえながら、燐寸マッチの火をその先へ移そうとした。 所が生憎あいにくその隣の卓子テエブルでは、煽風機せんぷうきが勢いよく廻っているものだから、燐寸の火はそこまで届かない内に、いつも風に消されてしまう。 そこでその卓子テエブルの側を通りかかったお君さんは、しばらくのあいだ風をふせぐために、客と煽風機との間へ足をめた。 その暇に巻煙草へ火を移した学生が、日に焼けたほおへ微笑を浮べながら、「難有ありがとう」と云った所を見ると、お君さんのこの親切が先方にも通じたのは勿論である。 すると帳場の前へ立っていたお松さんが、ちょうどそこへ持って行く筈の、アイスクリイムの皿を取り上げると、お君さんの顔をじろりと見て、「あなた持っていらっしゃいよ。」 と、嬌嗔きょうしんを発したらしい声を出した。 ――

こんな葛藤かっとうが一週間に何度もある。 従ってお君さんは、滅多にお松さんとは口をきかない。 いつも自働ピアノの前に立っては、場所がらだけに多い学生の客に、無言の愛嬌あいきょうを売っている。 あるいは業腹ごうはららしいお松さんに無言ののろけを買わせている。

が、お君さんとお松さんとの仲が悪いのは、何もお松さんが嫉妬しっとをするせいばかりではない。 お君さんも内心、お松さんの趣味の低いのを軽蔑している。 あれは全く尋常小学を出てから、浪花節なにわぶしを聴いたり、蜜豆みつまめを食べたり、男を追っかけたりばかりしていた、そのせいに違いない。 こうお君さんは確信している。 ではそのお君さんの趣味というのが、どんな種類のものかと思ったら、しばらくこのにぎやかなカッフェを去って、近所の露路ろじの奥にある、ある女髪結おんなかみゆいの二階をのぞいて見るが好い。 何故なぜと云えばお君さんは、その女髪結の二階に間借をして、カッフェへ勤めている間のほかは、始終そこに起臥おきふししているからである。

二階は天井の低い六畳で、西日にしびのさす窓から外を見ても、瓦屋根のほかは何も見えない。

序章-章なし
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葱 - 情報

ねぎ

文字数 8,116文字

著者リスト:

底本 芥川龍之介全集3

親本 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集

青空情報


底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年12月1日第1刷発行
   1996(平成8)年4月1日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月8日公開
2004年3月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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