序章-章なし
渠は歩き出した。
銃が重い、背嚢が重い、脚が重い、アルミニウム製の金椀が腰の剣に当たってカタカタと鳴る。
その音が興奮した神経をおびただしく刺戟するので、幾度かそれを直してみたが、どうしても鳴る、カタカタと鳴る。
もう厭になってしまった。
病気はほんとうに治ったのでないから、息が非常に切れる。
全身には悪熱悪寒が絶えず往来する。
頭脳が火のように熱して、顳
がはげしい脈を打つ。
なぜ、病院を出た? 軍医があとがたいせつだと言ってあれほど留めたのに、なぜ病院を出た? こう思ったが、渠はそれを悔いはしなかった。
敵の捨てて遁げた汚い洋館の板敷き、八畳くらいの室に、病兵、負傷兵が十五人、衰頽と不潔と叫喚と重苦しい空気と、それにすさまじい蠅の群集、よく二十日も辛抱していた。
麦飯の粥に少しばかりの食塩、よくあれでも飢餓を凌いだ。
かれは病院の背後の便所を思い出してゾッとした。
急造の穴の掘りようが浅いので、臭気が鼻と眼とをはげしく撲つ。
蠅がワンと飛ぶ。
石灰の灰色に汚れたのが胸をむかむかさせる。
あれよりは……あそこにいるよりは、この闊々とした野の方がいい。
どれほど好いかしれぬ。
満洲の野は荒漠として何もない。
畑にはもう熟しかけた高粱が連なっているばかりだ。
けれど新鮮な空気がある、日の光がある、雲がある、山がある、――すさまじい声が急に耳に入ったので、立ち留まってかれはそっちを見た。
さっきの汽車がまだあそこにいる。
釜のない煙筒のない長い汽車を、支那苦力が幾百人となく寄ってたかって、ちょうど蟻が大きな獲物を運んでいくように、えっさらおっさら押していく。
夕日が画のように斜めにさし渡った。
さっきの下士があそこに乗っている。
あの一段高い米の叺の積み荷の上に突っ立っているのが彼奴だ。
苦しくってとても歩けんから、鞍山站まで乗せていってくれと頼んだ。
すると彼奴め、兵を乗せる車ではない、歩兵が車に乗るという法があるかとどなった。
病気だ、ご覧の通りの病気で、脚気をわずらっている。
鞍山站の先まで行けば隊がいるに相違ない。
武士は相見互いということがある、どうか乗せてくれッて、たって頼んでも、言うことを聞いてくれなかった。
兵、兵といって、筋が少ないとばかにしやがる。
金州でも、得利寺でも兵のおかげで戦争に勝ったのだ。
馬鹿奴、悪魔奴!
蟻だ、蟻だ、ほんとうに蟻だ。
まだあそこにいやがる。
汽車もああなってはおしまいだ。
ふと汽車――豊橋を発ってきた時の汽車が眼の前を通り過ぎる。
停車場は国旗で埋められている。
万歳の声が長く長く続く。
と忽然最愛の妻の顔が眼に浮かぶ。