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カーライル博物館

著者:夏目漱石

カーライルはくぶつかん - なつめ そうせき

文字数:6,795 底本発行年:1971
著者リスト:
著者夏目 漱石
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序章-章なし

公園の片隅に通りがかりの人を相手に演説をしている者がある。 向うから来た釜形かまがたとがった帽子をずいて古ぼけた外套がいとう猫背ねこぜに着たじいさんがそこへ歩みをとどめて演説者を見る。 演説者はぴたりと演説をやめてつかつかとこの村夫子そんぷうしのたたずめる前に出て来る。 二人の視線がひたと行き当る。 演説者は濁りたる田舎調子いなかぢょうしにて御前はカーライルじゃないかと問う。 いかにもわしはカーライルじゃと村夫子が答える。 チェルシーの哲人セージと人が言囃いいはやすのは御前の事かと問う。 なるほど世間ではわしの事をチェルシーの哲人セージと云うようじゃ。 セージと云うは鳥の名だに、人間のセージとは珍らしいなと演説者はからからと笑う。 村夫子はなるほど猫も杓子しゃくしも同じ人間じゃのにことさらに哲人セージなどと異名いみょうをつけるのは、あれは鳥じゃと渾名あだなすると同じようなものだのう。 人間はやはり当り前の人間でかりそうなものだのに。 と答えてこれもからからと笑う。

余は晩餐前に公園を散歩するたびに川縁かわべり椅子いすに腰を卸して向側をながめる。 倫敦ロンドンに固有なる濃霧はことに岸辺に多い。 余が桜の杖にあごささえて真正面を見ていると、はるかに対岸の往来おうらいい廻る霧の影は次第に濃くなって五階だての町続きの下からぜんぜんこの揺曳たなびくもののうちに薄れ去って来る。 しまいには遠き未来の世を眼前に引きいだしたるように窈然ようぜんたる空のうちにとりとめのつかぬ鳶色とびいろの影が残る。 その時この鳶色の奥にぽたりぽたりと鈍き光りがしたたるように見え初める。 三層四層五層とも瓦斯ガスを点じたのである。 余は桜の杖をついて下宿の方へ帰る。 帰る時必ずカーライルと演説使いの話しを思いだす。 かの溟濛めいもうたる瓦斯の霧に混ずる所が往時この村夫子そんぷうしの住んでおったチェルシーなのである。

カーライルはおらぬ。 演説者も死んだであろう。 しかしチェルシーは以前のごとく存在している。 いな彼の多年住み古した家屋敷さえ今なお儼然げんぜんと保存せられてある。 千七百八年チェイン・ロウが出来てより以来幾多の主人を迎え幾多の主人を送ったかは知らぬがとにかく今日こんにちまで昔のままで残っている。 カーライルの歿後は有志家の発起ほっきで彼の生前使用したる器物調度図書典籍をあつめてこれを各室に按排あんばい好事こうずのものにはいつでも縦覧じゅうらんせしむる便宜べんぎさえはかられた。

文学者でチェルシーに縁故のあるものをげるとむかしはトマス・モア、くだってスモレット、なお下ってカーライルと同時代にはリ・ハントなどがもっとも著名である。 ハントの家はカーライルのじき近傍で、現にカーライルがこのいえに引き移った晩尋ねて来たという事がカーライルの記録に書いてある。 またハントがカーライルの細君にシェレーの塑像そぞうを贈ったという事も知れている。 このほかにエリオットのおった家とロセッチの住んだやしきがすぐそばの川端に向いた通りにある。 しかしこれらは皆すでにだいがかわって現に人が這入はいっているから見物は出来ぬ。 ただカーライルの旧廬きゅうろのみは六ペンスを払えば何人なんびとでもまた何時なんどきでも随意に観覧が出来る。

チェイン・ローは河岸端かしっぱたの往来を南に折れる小路でカーライルの家はその右側の中頃にる。 番地は二十四番地だ。

毎日のように川をへだてて霧の中にチェルシーをながめた余はある朝ついに橋を渡ってその有名なるいおりをたたいた。

庵りというと物寂ものさびた感じがある。 少なくとも瀟洒しょうしゃとか風流とかいう念とともなう。 しかしカーライルのいおりはそんなやにっこい華奢きゃしゃなものではない。

序章-章なし
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カーライル博物館 - 情報

カーライル博物館

カーライルはくぶつかん

文字数 6,795文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 夏目漱石全集2

親本 筑摩全集類聚版夏目漱石全集

青空情報


底本:「夏目漱石全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年10月27日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:LUNA CAT
2000年8月31日公開
2004年2月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:カーライル博物館

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