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著者:岡本かの子

すし - おかもと かのこ

文字数:13,153 底本発行年:1939
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著者岡本 かの子
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序章-章なし

東京の下町と山の手の境い目といったような、ひどく坂やがけの多い街がある。

表通りの繁華から折れ曲って来たものには、別天地の感じを与える。

つまり表通りや新道路の繁華な刺戟しげきに疲れた人々が、時々、刺戟をずして気分を転換する為めにまぎれ込むようなちょっとした街筋――

福ずしの店のあるところは、この町でも一ばん低まったところで、二階建の銅張りの店構えは、三四年前表だけを造作したもので、裏の方は崖に支えられている柱の足を根つぎして古い住宅のままを使っている。

古くからある普通の鮨屋すしやだが、商売不振で、先代の持主は看板ごと家作をともよの両親に譲って、店もだんだん行き立って来た。

新らしい福ずしの主人は、もともと東京で屈指の鮨店で腕を仕込んだ職人だけに、周囲の状況を察して、鮨の品質を上げて行くに造作もなかった。 前にはほとんど出まえだったが、新らしい主人になってからは、鮨盤の前や土間に腰かける客が多くなったので、始めは、主人夫婦と女の子のともよ三人きりの暮しであったが、やがて職人を入れ、子供と女中を使わないでは間に合わなくなった。

店へ来る客は十人十いろだが、全体については共通するものがあった。

後からも前からもぎりぎりに生活の現実に詰め寄られている、その間をぽっと外ずして気分を転換したい。

一つ一つ我ままがきいて、ちんまりした贅沢ぜいたくができて、そして、ここへ来ている間は、くだらなくばかになれる。 好みの程度に自分から裸になれたり、仮装したり出来る。 たとえ、そこで、どんな安ちょくなことをしても云っても、誰も軽蔑するものがない。 お互いに現実から隠れんぼうをしているような者同志の一種の親しさ、そして、かばい合うようなねんごろな眼ざしで鮨をつまむ手つきや茶をむ様子を視合みあったりする。 かとおもうとまたそれは人間というより木石の如く、はたの神経とはまったく無交渉な様子で黙々といくつかの鮨をつまんで、さっさと帰って行く客もある。

鮨というものの生む甲斐々々かいがいしいまめやかな雰囲気、そこへ人がいくらふけり込んでも、みだれるようなことはない。 万事が手軽くこだわりなく行き過ぎて仕舞う。

福ずしへ来る客の常連は、元狩猟銃器店の主人、デパート外客廻り係長、歯科医師、畳屋のせがれ、電話のブローカー、石膏せっこう模型の技術家、児童用品の売込人、兎肉販売の勧誘員、証券商会をやったことのあった隠居――このほかにこの町の近くの何処どこかにんでいるに違いない劇場関係の芸人で、劇場がひまな時は、何か内職をするらしく、脂づいたような絹ものをぞろりと着て、青白い手で鮨を器用につまんで喰べて行く男もある。

常連で、この界隈かいわいに住んでいる暇のある連中は散髪のついでに寄って行くし、遠くからこの附近へ用足しのあるものは、その用の前後に寄る。 季節によって違うが、日が長くなると午後の四時頃から灯がつく頃が一ばん落合って立て込んだ。

めいめい、好み好みの場所に席を取って、鮨種子すしだねで融通して呉れるさしみや、のもので酒を飲むものもあるし、すぐ鮨に取りかかるものもある。

ともよの父親である鮨屋の亭主は、ときには仕事場から土間へ降りて来て、黒みがかった押鮨を盛った皿を常連のまん中のテーブルに置く。

「何だ、何だ」

好奇の顔が四方からのぞき込む。

「まあ、やってご覧、あたしの寝酒のさかなさ」

亭主は客に友達のような口をきく。

こはだにしちゃ味が濃いし――」

ひとつつまんだのがいう。

あじかしらん」

すると、畳敷の方の柱の根に横坐りにして見ていた内儀かみさん――ともよの母親――が、は は は は と太りじしゆすって「みんなおとッつあんに一ぱい喰った」と笑った。

それは塩さんまを使った押鮨で、おからを使って程よく塩と脂を抜いて、押鮨にしたのであった。

「おとっさんずるいぜ、ひとりでこっそりこんなうまいものをこしらえて食うなんて――」

「へえ、さんまも、こうして食うとまるで違うね」

客たちのこんな話が一しきりがやがや渦まく。

「なにしろあたしたちは、銭のかかる贅沢はできないからね」

「おとっさん、なぜこれを、店に出さないんだ」

「冗談いっちゃ、いけない、これを出した日にゃ、他の鮨が蹴押されて売れなくなっちまわ。 第一、さんまじゃ、いくらも値段がとれないからね」

「おとッつあん、なかなか商売を知っている」

その他、鮨の材料を採ったあとのかつお中落なかおちだの、あわびはらわただの、たいの白子だのをたくみに調理したものが、ときどき常連にだけ突出された。

序章-章なし
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鮨 - 情報

すし

文字数 13,153文字

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底本 岡本かの子全集5

親本 第六創作集 老妓抄

青空情報


底本:「岡本かの子全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年8月24日第1刷発行
底本の親本:「第六創作集 老妓抄」中央公論社
   1939(昭和14)年3月18日
初出:「文芸」
   1939(昭和14)年1月号
入力・校正:鈴木厚司
1999年3月8日公開
2013年4月26日修正
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