• URLをコピーしました!

少女地獄

著者:夢野久作

しょうじょじごく - ゆめの きゅうさく

文字数:104,339 底本発行年:1976
著者リスト:
著者夢野 久作
底本: 少女地獄
0
0
0


何んでも無い

白鷹秀麿しらたかひでまろ 足下

臼杵利平

小生は先般、丸の内倶楽部くらぶ庚戌会こうぼくかいで、短時間拝眉はいびの栄を得ましたもので、貴兄と御同様に九州帝国大学、耳鼻科出身の後輩であります。 昨、昭和八年の六月初旬から、当横浜市の宮崎町に、臼杵うすき耳鼻科のネオンサインを掲げておる者でありますが、突然にかような奇怪な手紙を差し上げる非礼をお許し下さい。

姫草ユリ子が自殺したのです。

あの名前の通りに可憐な、清浄無垢せいじょうむくな姿をした彼女は、貴下と小生の名を呪咀のろいながら自殺したのです。 あの鳩のような小さな胸に浮かみ現われた根も葉もない妄想もうそうによって、貴下と小生の家庭は申すに及ばず、満都の新聞紙、警視庁、神奈川県の司法当局までも、その虚構うその天国を構成する材料に織込おりこんで来たつもりで、却って一種の戦慄せんりつすべき脅迫観念の地獄絵巻を描き現わして来ました彼女は、遂に彼女自身を、その自分の創作した地獄絵巻のドン底にほうむり去らなければならなくなったのです。 その地獄絵巻の実在を、自分の死によって裏書きして、小生等を仏教の所謂いわゆる永劫えいごうの戦慄、恐怖の無間地獄に突き落すべく……。

その一見、平々凡々な、何んでもない出来事の連続のように見える彼女の虚構の裡面りめんに脈動している摩訶まか不思議な少女の心理作用の恐しさ。 その心理作用に対する彼女の執着さを、小生は貴下に対して逐一説明し、解剖し、分析して行かねばならぬという異常な責任を持っておる者であります。

しかもその困難を極めた、一種異様な責任は本日の午後に、思いもかけぬ未知の人物から、私の双肩に投げかけられたものであります。 ……ですからこの一種特別の報告書も、順序としてその不可思議な未知の人物の事から書き始めさして頂きます。

本日の午後一時頃の事でした。

重態の脳膜炎のうまくえん患者の手術に疲れ切った私は、外来患者の途絶えた診察室の長椅子に横たわって、硝子ガラス窓越に見える横浜港内の汽笛と、窓の下の往来の雑音をゴッチャに聞きながらウトウトしておりますと、突然に玄関のベルが鳴って、一人の黒い男性の影が静かにすべり込んで来ました。

ね起きてみますと、それはさながらに外国の映画に出て来る名探偵じみた風采の男でした。 年の頃は四十四、五でしたろうか。 顔が長く、眉が濃く太く、高い、品のいい鼻梁はなすじの左右に、切れ目の長い眼が落ち窪んで鋭い、黒い光を放っているところは、とりあえず和製のシャアロック・ホルムズと言った感じでした。 全体の皮膚の色が私と同様に青黒く、スラリとした骨太い身体からだに、シックリした折目正しい黒地のモーニング、真新しい黒のベロア帽、同じく黒のエナメル靴、銀頭の蛇木杖スネキウッドという微塵みじんも隙のない態度風采で、診察室のドアを後ろ手に静かに閉めますと、私一人しかいない室内をジロリと一眼見まわしながら立ちどまって、慇懃いんぎんに帽子をって、中禿を巧みに隠した頭を下げました。

軽率な私は、この人物を新来の患者と思いましたので愛想よく立ち上りました。

「サアどうぞ」とジャコビアン張の小椅子サイドチェアを進めました。

「私が臼杵です」

しかし相手の紳士は依然として黒い、冷たい影法師のように突立っておりました。 ちょっと眼を伏せて……わかっている……と言ったような表情をした切り一言も口をきませんでした。 そのうちに青白い毛ムクジャラの手を胴衣チョッキの内ポケットに入れて、一枚のカード型の紙片を探り出しますと、私の顔を意味ありげにチラリと見ながら、そば小卓子カードテーブルの上に置いて私の方へ押し遣りました。

そこで私は滑稽にも……サテはおしの患者が来たな……と思いながらその紙片を取り上げてみますと、意外にも下手な小学生じみた鉛筆文字でハッキリと「姫草ユリ子の行方を御存じですか」と書いて在るのです。

私は唖然あぜんとなってその男の顔を見上げました。 背丈せいが五尺七、八寸もありましたろうか。

「……ハハア。 知りませんがね。 だまって出て行きましたから……」

と即答をしましたが、その刹那せつなに……サテハこの男が姫草ユリ子の黒幕だな。 何かしら俺を脅迫しに来やがったんだな……と直感しましたので直ぐに……くそでもらえ……という覚悟を腹の中で決めてしまいました。 しかし表面うわべにはソンナ気振も見せないようにして、平凡な開業医らしいトボケ方をしておりました。 ……姫草ユリ子の行方を知っていないでよかった。 知っていると言ったら直ぐに付け込まれて脅迫されるところであったろう……と腹の中で思いながら……。

相手の紳士はそうした私の顔を、その黒い、つめたい執念深い瞳付めつきで十数秒間、凝視ぎょうししておりましたが、やがてまた胴衣チョッキの内側から一つの白い封筒を探り出して、うやうやしく私の前に置きました。 ……御覧下さい……と言う風に薄笑いを含みながら……。

白い封筒の中味はありふれた便箋びんせんでしたが、文字はまがいもない姫草ユリ子のペン字で、処々汚なくにじんだり、奇妙に震えたりしているのが何となく無気味でした。

「白鷹先生

何んでも無い

━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

少女地獄 - 情報

少女地獄

しょうじょじごく

文字数 104,339文字

著者リスト:
著者夢野 久作

底本 少女地獄

青空情報


底本:「少女地獄」角川文庫、角川書店
   1976(昭和51)年11月30日初版発行
   1990(平成2)年2月20日26版発行
入力:ryoko masuda
校正:もりみつじゅんじ
2000年1月12日公開
2011年1月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:少女地獄

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!