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蜘蛛の糸

著者:芥川龍之介

くものいと - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:2,865 底本発行年:1971
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著者芥川 竜之介
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ある日の事でございます。 御釈迦様おしゃかさまは極楽の蓮池はすいけのふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。 池の中に咲いているはすの花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色きんいろずいからは、何とも云えないにおいが、絶間たえまなくあたりへあふれて居ります。 極楽は丁度朝なのでございましょう。

やがて御釈迦様はその池のふちに御佇おたたずみになって、水のおもておおっている蓮の葉の間から、ふと下の容子ようすを御覧になりました。 この極楽の蓮池の下は、丁度地獄じごくの底に当って居りますから、水晶すいしようのような水を透き徹して、三途さんずの河や針の山の景色が、丁度のぞ眼鏡めがねを見るように、はっきりと見えるのでございます。

するとその地獄の底に、※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)陀多かんだたと云う男が一人、ほかの罪人と一しょにうごめいている姿が、御眼に止まりました。 この※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)陀多と云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。 と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛くもが一匹、路ばたをって行くのが見えました。 そこで※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。 その命を無暗むやみにとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」 と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。

御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。 そうしてそれだけの善い事をしたむくいには、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。 幸い、側を見ますと、翡翠ひすいのような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。 御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮しらはすの間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御おろしなさいました。

こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていた※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)陀多かんだたでございます。 何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。 その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつくかすか嘆息たんそくばかりでございます。 これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦せめくに疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。 ですからさすが大泥坊の※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)陀多も、やはり血の池の血にむせびながら、まるで死にかかったかわずのように、ただもがいてばかり居りました。

ところがある時の事でございます。 何気なにげなく※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛くもの糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。 ※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)陀多はこれを見ると、思わず手をって喜びました。 この糸にすがりついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。 いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。 そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。

こう思いましたから※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)陀多かんだたは、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。 元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。

しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくらあせって見た所で、容易に上へは出られません。 ややしばらくのぼるうちに、とうとう※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。 そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。

すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。 それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。 この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。 ※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。 しめた。」 と笑いました。

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蜘蛛の糸 - 情報

蜘蛛の糸

くものいと

文字数 2,865文字

著者リスト:

底本 芥川龍之介全集2

親本 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集

青空情報


底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第11刷発行
親本:筑摩全集類聚版芥川龍之介全集
   1971(昭和46)年3月〜11月
入力:平山誠、野口英司
校正:もりみつじゅんじ
1997年11月10日公開
2011年1月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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