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アッシャー家の崩壊

原題:THE FALL OF HOUSE OF USHER

著者:エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe

アッシャーけのほうかい

文字数:19,786 底本発行年:1951
著者リスト:
底本: 黒猫・黄金虫
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序章-章なし

[#ページの左右中央]

Son coeur est un luth suspendu;

Sit※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)t qu'on le touche il r※(アキュートアクセント付きE小文字)sonne.

「彼が心はかれる琵琶びわにして、

触るればたちまち鳴りひびく」

ド・ベランジュ(1)

[#改ページ]

雲が重苦しく空に低くかかった、ものい、暗い、寂寞せきばくとした秋の日を一日じゅう、私はただ一人馬にまたがって、妙にものさびしい地方を通りすぎて行った。 そして黄昏たそがれの影があたりに迫ってくるころ、ようやく憂鬱ゆううつなアッシャー家の見えるところへまで来たのであった。 どうしてなのかは知らない――がその建物を最初にちらと見たとたんに、堪えがたい憂愁の情が心にしみわたった。 堪えがたい、と私は言う。 なぜならその感情は、荒涼とした、あるいはものすごい自然のもっとも峻厳しゅんげんな姿にたいするときでさえも常に感ずる、あの詩的な、なかば心地よい情趣によって、少しもやわらげられなかったからである。 私はの前の風景をながめた。 ――ただの家と、その邸内の単純な景色を――荒れはてた壁を――眼のような、ぽかっと開いた窓を――少しばかり生いしげった菅草すげぐさを――四、五本の枯れた樹々きぎの白い幹を――眺めた。 阿片耽溺者あへんたんできしゃの酔いざめ心地――日常生活への痛ましい推移――夢幻のとばりのいまわしい落下――といったもののほかにはどんな現世の感覚にもたとえることのできないような、魂のまったくの沈鬱を感じながら。 心は氷のように冷たく、うち沈み、いたみ、――どんなに想像力を刺激しても、壮美なものとはなしえない救いがたいもの淋しい思いでいっぱいだった。 なんだろう、――私は立ち止って考えた、――アッシャー家を見つめているうちに、このように自分の心をうち沈ませたものはなんだろう? それはまったく解きがたい神秘であった。 それからまた私は、もの思いに沈んでいるとき自分に群がりよってくる影のようないろいろの妄想もうそうにうち勝つこともできなかった。 で、そこにはたしかに、我々をこんなにも感動させる力を持ったまことに単純な自然物象の結合があるのだが、その力を分析することは我々の知力ではとてもかなわないのだ、という頼りない結論に落ちるより仕方なかった。 また、この景色の個々の事物の、つまりこの画面のこまごましたものの、配置をただ変えるだけで、もの悲しい印象を人に与える力を少なくするか、あるいはきっと、すっかり無くなすのではあるまいか、と私は考えた。 そこでこの考えにしたがって、この家のそばに静かな光をたたえている黒い無気味な沼のけわしい崖縁がけぶちに馬を近づけ、灰色の菅草や、うす気味のわるい樹の幹や、うつろな眼のような窓などの、水面にうつっている倒影を見下ろした、――が、やはり前よりももっとぞっとして身ぶるいするばかりであった。

そのくせ、この陰鬱な屋敷に、いま私は二、三週間滞在しようとしているのである。 この家の主人、ロデリック・アッシャーは私の少年時代の親友であったが、二人が最後に会ってからもう長い年月がたっていた。 ところが最近になって一通の手紙が遠く離れた地方にいる私のもとへとどいて、――彼からの手紙であるが、――それは、ひどくせがむような書きぶりなので、私自身出かけてゆくよりほかに返事のしようのないようなものであった。 その筆蹟ひっせきは明らかに神経の興奮をあらわしていた。 急性の体の疾患のこと――苦しい心の病のこと――彼のもっとも親しい、そして実にただ一人の友である私に会い、その愉快な交遊によって病をいくらかでも軽くしたいという心からの願いのこと――などを、彼はその手紙で語っていた。 すべてこれらのことや、なおそのほかのことの書きぶり――彼の願いのなかに暖かにあらわれている真情――が、私に少しのためらう余地をも与えなかった。 そこで私は、いまもなおたいへん奇妙なものと思われるこの招きに、すぐと応じたのである。

子供のころ二人はずいぶん仲のよい友達ではあったが、私は実のところ彼についてはほとんど知らなかった。 彼の無口はいつも極端で、しかも習慣的であったのだ。 だが私は、ごく古い家がらの彼の一家が、遠い昔から特別に鋭敏な感受性によって世に聞えていて、その感受性は長い時代を通じて多くの優秀な芸術にあらわれ、近年になっては、それが音楽理論の正統的なたやすく理解される美にたいするよりも、その錯綜さくそうした美にたいする熱情的な献身にあらわれているし、また一方では、幾度もくりかえされた莫大ばくだいな、しかし人目にたたぬ慈善行為にあらわれている、ということは知っていた。 また、アッシャー一族の血統は非常に由緒ゆいしょあるものではあるが、いつの時代にも決して永続する分家を出したことがない、いいかえれば全一族は直系の子孫だけであり、ごく些細ささいなごく一時的の変化はあっても今日まで常にそうであった、というまことに驚くべき事実をも知っていた。 その屋敷の特質と、一般に知られているこの一家の人々の特質とが、完全に調和していることを思い浮べながら、また数世紀も経過するあいだにその一方が他方に与えた影響について思いめぐらしながら、私は次のように考えた、――この分家がないということと、世襲財産が家名とともに父から子へと代々よそへれずに伝わったということのために、とうとうその世襲財産と家名との二つが同一のものと見られて、領地の本来の名を「アッシャー家」という奇妙な、両方の意味にとれる名称――この名称は、それを用いる農夫たちの心では、家族の者と一家の邸宅との両方を含んでいるようであった――のなかへ混同させてしまったのではなかろうか、と。

私のいささか子供らしい試みの――沼のなかをのぞきこんだことの――唯一ゆいいつの効果がただ最初の奇怪な印象を深めただけであったことはすでに述べた。 私が自分の迷信――そういってはいけない理由がどこにあろう? ――の急速に増してゆくことを意識していることが、かえってますますそれを深めることになったということは、なんの疑いもないことだ。 こんなことは、前から知っていたことだが、恐怖を元としているすべての感情に通ずる逆説的な法則である。 そして、私が池のなかにうつっている家の影からふたたび本物の家に眼を上げたとき、自分の心のなかに一つの奇妙な空想のき起ったのも、あるいはただこの理由からであるかもしれない。 ――その空想というのは実は笑うべきもので、ただ私を悩ました感情の強烈な力強さを示すためにしるすにすぎない。 私は想像力を働かして、この屋敷や地所のあたりには、そこらあたりに特有な雰囲気ふんいき――大空の大気とはちっとも似てない、枯木や、灰色の壁や、ひっそりした沼などから立ちのぼる雰囲気――どんよりした、のろい、ほとんど眼に見えない、鉛色の、有毒で神秘的な水蒸気――が一面に垂れこめているのだ、とほんとうに信ずるようになったのである。

序章-章なし
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アッシャー家の崩壊 - 情報

アッシャー家の崩壊

アッシャーけのほうかい

文字数 19,786文字

著者リスト:

底本 黒猫・黄金虫

青空情報


底本:「黒猫・黄金虫」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年8月15日発行
   1995(平成7)年10月15日89刷改版
   1998(平成10)年8月20日第94刷
入力:大野晋
校正:福地博文
1999年4月3日公開
2014年2月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:アッシャー家の崩壊

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