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新生

著者:島崎藤村

しんせい - しまざき とうそん

文字数:332,231 底本発行年:1955
著者リスト:
著者島崎 藤村
底本: 新生(下)
底本2: 新生(上)
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序章-章なし

[#ページの左右中央]

序の章

[#改ページ]

「岸本君――僕は僕の近来の生活と思想の断片を君に書いて送ろうと思う。 しかし実を言えば何も書く材料は無いのである。 黙していて済むことである。 君と僕との交誼まじわりが深ければ深いほど、黙していた方が順当なのであろう。 ふるい家を去って新しい家に移った僕は懶惰らんだに費す日の多くなったのをよろこぶぐらいなものである。 僕には働くということが出来ない。 他人の意志の下に働くということは無論どうあっても出来ない。 そんなら自分の意志のむちを背にうけて、厳粛な人生のみちに上るかというに、それも出来ない。 今までに一つとしてまとまった仕事をして来なかったのが何よりの証拠である。 空と雲と大地とは一日ながめくらしても飽くことを知らないが、半日の読書は僕をましめることが多い。 新しい家に移ってからは、空地に好める樹木をえたり、ほんの慰み半分に畑をいじったりするぐらいの仕事しかしないのである。 そしてわずかに発芽する蔬菜そさいのたぐいを順次に生に忠実な虫に供養するまでである。 勿論もちろん厨房ちゅうぼうの助に成ろうはずはない。 こんな有様であるから田園生活なんどは毛頭もうとう思いも寄らぬことである。 僕の生活は相変らずくうな生活で始終している。 そして当然僕の生涯のげんの上には倦怠けんたいと懶惰が灰色の手を置いているのである。 考えて見れば、これが生の充実という現代の金口きんく何等なんらの信仰をも持たぬ人間の必定ひつじょうちて行く羽目はめであろう。 それならそれを悔むかというに、僕にはそれすら出来ない。 何故かというに僕の肉体には本能的な生の衝動がきわめて微弱になってしまったからである。 永遠に堕ちて行くのは無為の陥穽かんせいである。 然しながら無為の陥穽にはまった人間にもなお一つ残されたる信仰がある。 二千年も三千年も言い古した、哲理の発端で総合である無常――僕は僕の生気の失せた肉体を通して、この無常の鐘の音を今更ながらしみじみと聴きるることがある。 これが僕のこのごろの生活の根調である……」

郊外の中野の方に住む友人の手紙が岸本の前にひろげてあった。

これは数月前に岸本のもらった手紙だ。 それを彼は取出して来て、読返して見た。 若かった頃は彼も友人にてて随分長い手紙を書き、また友人の方からも貰いもしたものであったが、次第に書きかわす文通もほんの用事だけの短いものと成って行った。 それも葉書で済ませる場合にはなるべく簡単に。 それだけ書くべき手紙の数が一方にはえて来た。 一日かかって何通となく書くことはめずらしくない。 その意味から言えば、彼の前に披げてあったものは、めったに友人から貰うことの出来る手紙でもなかった。 手紙の形式をかりて書いてよこしてくれた手紙でない手紙だ。 読んで行くうちに、彼は何よりもず人生の半ばに行き着いた人一人としての友人の生活のすがたに、その告白に、ひどく胸を打たれた。 ある夕方が来て見ると、あだかも彼方あっちの木に集り是方こっちの木に集りして飛び騒いでいた小鳥の群が、一羽黙り、二羽黙り、がやがやとした楽しい鳴声が何時いつの間にか沈まって行ったように、丁度そうした夕方が岸本の周囲へも来た。 中にも、この手紙をくれた友人が中野の方へ新しい家を造って引移ってからというものは、ずっと声を潜めてしまった。

序章-章なし
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新生 - 情報

新生

しんせい

文字数 332,231文字

著者リスト:
著者島崎 藤村

底本 新生(下)

青空情報


底本:「新生(上)」新潮文庫、新潮社
   1955(昭和30)年3月25日発行
   1969(昭和44)年11月20日20刷改版
   1982(昭和57)年3月20日39刷
   「新生(下)」新潮文庫、新潮社
   1955(昭和30)年5月10日発行
   1970(昭和45)年1月20日20刷改版
   1983(昭和58)年2月15日41刷
初出:「東京朝日新聞」
   1918(大正7)年5月1日〜10月5日、1919(大正8)年8月5日〜10月24日
※定本版「藤村文庫」第七篇(新潮社、1938年6月刊)は、本作品の前編だけを「寝覚」と題して収録している。上巻末尾の「『寝覚』附記」は、著者が同書に後書きとして付したものである。
入力:H・大野
校正:かとうかおり
2000年3月23日作成
2016年5月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:新生

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