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こころ

著者:夏目漱石

こころ - なつめ そうせき

文字数:159,984 底本発行年:1991
著者リスト:
著者夏目 漱石
底本: こころ
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上 先生と私

わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。 だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。 これは世間をはばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。 私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。 筆をっても心持は同じ事である。 よそよそしい頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。

私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。 その時私はまだ若々しい書生であった。 暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面くめんして、出掛ける事にした。 私は金の工面に三日さんちを費やした。 ところが私が鎌倉に着いて三日とたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。 電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。 友達はかねてから国元にいる親たちにすすまない結婚をいられていた。 彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。 それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。 それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。 彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。 私にはどうしていいか分らなかった。 けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼はもとより帰るべきはずであった。 それで彼はとうとう帰る事になった。 せっかく来た私は一人取り残された。

学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿にまる覚悟をした。 友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。 したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。

宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。 玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなものには長いなわてを一つ越さなければ手が届かなかった。 車で行っても二十銭は取られた。 けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。 それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。

私は毎日海へはいりに出掛けた。 古いくすぶり返った藁葺わらぶきあいだを通り抜けていそへ下りると、このへんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。 ある時は海の中が銭湯せんとうのように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。 その中に知った人を一人ももたない私も、こういうにぎやかな景色の中につつまれて、砂の上にそべってみたり、膝頭ひざがしらを波に打たしてそこいらをまわるのは愉快であった。

私は実に先生をこの雑沓ざっとうあいだに見付け出したのである。 その時海岸には掛茶屋かけぢゃやが二軒あった。 私はふとした機会はずみからその一軒の方に行きれていた。 長谷辺はせへんに大きな別荘を構えている人と違って、各自めいめいに専有の着換場きがえばこしらえていないここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といったふうなものが必要なのであった。 彼らはここで茶を飲み、ここで休息するほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここでしおはゆい身体からだを清めたり、ここへ帽子やかさを預けたりするのである。

上 先生と私

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こころ - 情報

こころ

こころ

文字数 159,984文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 こころ

青空情報


底本:「こころ」集英社文庫、集英社
   1991(平成3)年2月25日第1刷
   1995(平成7)年6月14日第10刷
初出:「朝日新聞」
   1914(大正3)年4月20日〜8月11日
※誤植の修正は「漱石全集」岩波書店を参照しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:伊藤時也
1999年7月31日公開
2010年10月31日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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