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硝子戸の中

著者:夏目漱石

がらすどのうち - なつめ そうせき

文字数:52,302 底本発行年:1971
著者リスト:
著者夏目 漱石
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硝子戸ガラスどうちから外を見渡すと、霜除しもよけをした芭蕉ばしょうだの、赤いった梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入ってない。 書斎にいる私の眼界はきわめて単調でそうしてまた極めて狭いのである。

その上私は去年の暮から風邪かぜを引いてほとんど表へ出ずに、毎日この硝子戸の中にばかりすわっているので、世間の様子はちっとも分らない。 心持が悪いから読書もあまりしない。 私はただ坐ったり寝たりしてその日その日を送っているだけである。

しかし私の頭は時々動く。 気分も多少は変る。 いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起って来る。 それから小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入ってる。 それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけない事を云ったりたりする。 私は興味にちた眼をもってそれらの人を迎えたり送ったりした事さえある。

私はそんなものを少し書きつづけて見ようかと思う。 私はそうした種類の文字もんじが、忙がしい人の眼に、どれほどつまらなく映るだろうかと懸念けねんしている。 私は電車の中でポッケットから新聞を出して、大きな活字だけに眼をそそいでいる購読者の前に、私の書くような閑散な文字をならべて紙面をうずめて見せるのを恥ずかしいものの一つに考える。 これらの人々は火事や、泥棒や、人殺しや、すべてその日その日の出来事のうちで、自分が重大と思う事件か、もしくは自分の神経を相当に刺戟しげきし得る辛辣しんらつな記事のほかには、新聞を手に取る必要を認めていないくらい、時間に余裕をもたないのだから。 ――彼らは停留所で電車を待ち合わせる間に、新聞を買って、電車に乗っている間に、昨日きのう起った社会の変化を知って、そうして役所か会社へ行き着くと同時に、ポッケットに収めた新聞紙の事はまるで忘れてしまわなければならないほど忙がしいのだから。

私は今これほど切りつめられた時間しか自由にできない人達の軽蔑けいべつおかして書くのである。

去年から欧洲では大きな戦争が始まっている。 そうしてその戦争がいつ済むとも見当けんとうがつかない模様である。 日本でもその戦争の一小部分を引き受けた。 それが済むと今度は議会が解散になった。 きたるべき総選挙は政治界の人々にとっての大切な問題になっている。 米が安くなり過ぎた結果農家に金が入らないので、どこでも不景気だとこぼしている。 年中行事で云えば、春の相撲すもうが近くに始まろうとしている。 要するに世の中は大変多事である。 硝子戸の中にじっと坐っている私なぞはちょっと新聞に顔が出せないような気がする。 私が書けば政治家や軍人や実業家や相撲狂すもうきょう退けて書く事になる。 私だけではとてもそれほどの胆力が出て来ない。 ただ春に何か書いて見ろと云われたから、自分以外にあまり関係のないつまらぬ事を書くのである。 それがいつまでつづくかは、私の筆の都合つごうと、紙面の編輯へんしゅうの都合とできまるのだから、判然はっきりした見当は今つきかねる。

電話口へ呼び出されたから受話器を耳へあてがって用事をいて見ると、ある雑誌社の男が、私の写真をもらいたいのだが、いつりに行って好いか都合を知らしてくれろというのである。 私は「写真は少し困ります」と答えた。

私はこの雑誌とまるで関係をもっていなかった。 それでも過去三四年の間にその一二冊を手にした記憶はあった。 人の笑っている顔ばかりをたくさんせるのがその特色だと思ったほかに、今は何にも頭に残っていない。 けれどもそこにわざとらしく笑っている顔の多くが私に与えた不快の印象はいまだに消えずにいた。 それで私はことわろうとしたのである。

雑誌の男は、卯年うどしの正月号だから卯年の人の顔を並べたいのだという希望を述べた。

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硝子戸の中 - 情報

硝子戸の中

がらすどのうち

文字数 52,302文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 夏目漱石全集10

親本 筑摩全集類聚版夏目漱石全集

青空情報


底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
初出:「朝日新聞」
   1915(大正4)年1月13日〜2月23日
入力:柴田卓治
校正:大野晋
1999年8月22日公開
2012年9月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:硝子戸の中

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