高瀬舟
著者:森鴎外
たかせぶね - もり おうがい
文字数:8,368 底本発行年:1962
當時遠島を申し渡された罪人は、勿論重い科を犯したものと認められた人ではあるが、決して盜をするために、人を殺し火を放つたと云ふやうな、
さう云ふ罪人を載せて、
同心を勤める人にも、種々の性質があるから、此時只うるさいと思つて、耳を掩ひたく思ふ冷淡な同心があるかと思へば、又しみじみと人の哀を身に引き受けて、役柄ゆゑ氣色には見せぬながら、無言の中に私かに胸を痛める同心もあつた。 場合によつて非常に悲慘な境遇に陷つた罪人と其親類とを、特に心弱い、涙脆い同心が宰領して行くことになると、其同心は不覺の涙を禁じ得ぬのであつた。
そこで高瀬舟の護送は、町奉行所の同心仲間で、不快な職務として嫌はれてゐた。
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いつの頃であつたか。
多分江戸で白河樂翁侯が
それは名を喜助と云つて、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。 固より牢屋敷に呼び出されるやうな親類はないので、舟にも只一人で乘つた。
護送を命ぜられて、一しよに舟に乘り込んだ同心羽田庄兵衞は、只喜助が弟殺しの罪人だと云ふことだけを聞いてゐた。
さて牢屋敷から棧橋まで連れて來る間、この
庄兵衞は不思議に思つた。 そして舟に乘つてからも、單に役目の表で見張つてゐるばかりでなく、絶えず喜助の擧動に、細かい注意をしてゐた。
其日は暮方から風が
夜舟で寢ることは、罪人にも許されてゐるのに、喜助は横にならうともせず、雲の濃淡に從つて、光の増したり減じたりする月を仰いで、默つてゐる。 其額は晴やかで目には微かなかがやきがある。
庄兵衞はまともには見てゐぬが、始終喜助の顏から目を離さずにゐる。 そして不思議だ、不思議だと、心の内で繰り返してゐる。 それは喜助の顏が縱から見ても、横から見ても、いかにも樂しさうで、若し役人に對する氣兼がなかつたなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌ひ出すとかしさうに思はれたからである。
庄兵衞は心の内に思つた。 これまで此高瀬舟の宰領をしたことは幾度だか知れない。 しかし載せて行く罪人は、いつも殆ど同じやうに、目も當てられぬ氣の毒な樣子をしてゐた。 それに此男はどうしたのだらう。 遊山船にでも乘つたやうな顏をしてゐる。