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オリンポスの果実

著者:田中英光

オリンポスのかじつ - たなか ひでみつ

文字数:74,756 底本発行年:1951
著者リスト:
著者田中 英光
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秋ちゃん。

と呼ぶのも、もう可笑おかしいようになりました。 熊本秋子さん。 あなたも、たしか、三十に間近いはずだ。 ぼくも同じく、二十八歳。 すでに女房にょうぼうもらい、子供も一人できた。 あなたは、九州で、女学校の体操教師をしていると、近頃ちかごろ風の便りにききました。

時間というのは、変なものです。 十年近い歳月が、当時あれほど、あなたの事というと興奮して、こうした追憶ついおくをするのさえ、苦しかったぼくを、今では冷静におししずめ、ああした愛情は一体なんであったろうかと、考えてみるようにさせました。

こいというには、あまりに素朴そぼくな愛情、ろくろく話さえしなかった仲でしたから、あなたはもう忘れているかもしれない。 しかし、ぼくは今日、ロスアンゼルスで買った記念の財布さいふのなかから、あのとき大洋丸で、あなたに貰った、あんずの実を、とりだし、ここ京城けいじょう陋屋ろうおくもささぬ裏庭にてました。 そのとき、急にこうしたものが書きたくなったのです。

これはむろん恋情れんじょうからではありません。 ただむかしの愛情の思い出と、あなたに、お聞きしたかったことが、聞けなかった心残りからです。

思わせぶりではありますがその言葉は、この手記の最後まで、とっておかして下さい。

あなたにとってはどうでしょうか、ぼくにとって、あのオリムピアへの旅は、一種青春の酩酊めいていのごときものがありました。 あの前後を通じて、ぼくはひどい神経衰弱すいじゃくにかかっていたような気がします。

ぼくだけではなかったかも知れません。 たとえば、すでに三十近かった、ぼく達のキャプテン整調の森さんでさえ、出発の二三日前、あるいかがわしい場処へ、デレゲェション・バッジを落してきたのです。

モオラン(Morning-run)と称する、朝の駆足かけあしをやって帰ってくると、森さんが、合宿わきの六地蔵の通りで背広を着て、うつむいたまま、何かを探していました。

駆けているぼく達――といっても、かじの清さんに、七番の坂本さん、二番のとらさん、それに、ぼくといった真面目まじめな四五人だけでしたが――をみると、森さんは、真っ先に、ぼくをよんで、「オイ、大坂ダイハン、いっしょに探してくれ」とたのむのです。 ぼくの姓は坂本ですが、七番の坂本さんと間違まちがやすいので、いつも身体からだの大きいぼくは、侮蔑ぶべつ的な意味もふくめて、大坂ダイハンと呼ばれていました。

そのとき、バッジを悪所に落した事情をきくと、日頃いじめられているだけに、みんなが笑うと一緒いっしょに、き出したくなるのを、我慢がまんできなかったほど、い気味だ、とおもいましたが、それから、しばらくして、ぼくは、森さんより、もっとひどい失敗をやってしまったのです。

出発の前々夜、合宿引上げの酒宴しゅえんが、おわると、皆は三々五々、芸者買いに出かけてしまい、残ったのは、また、舵の清さん、七番の坂本さん、それと、ぼくだけになってしまいました。 ぼくも、遊びに行こうとは思っておりましたが、ともあれ東京に実家があるので、一度は荷物を置きに、帰らねばなりません。

その夜は、いくら飲んでも、いがまわらず、むなしい興奮と、練習づかれからでしょう、頭はうつろ、ひとみはかすみ、まぶたはおもく時々痙攣けいれんしていました。 なにしろ、それからの享楽きょうらく妄想もうそうして、夢中むちゅうで、合宿を引き上げる荷物も、いい加減にしばりおわると、清さんが、「坂本さん、今夜は、家だろうね」とからかうのに、「勿論もちろんですよ」こう照れた返事をしたまま、自動車をよびに、戸外に出ました。

そのとき学生服を着ていて、協会から、作って貰った、そろいの背広は始めてまとうれしさもあり、その夜、遊びに出るまで、着ないつもりで手をとおさないまま、蒲団ふとんの間に、つつんでおいた、それが悪かったんです。 はじめから、着ていればよかった。

運転手と助手から、荷物を運び入れてもらったり、ぼくは、自動車の座席にふんぞりかえり、その夜の後の享楽ばかり思っていました。 なにしろ、二十はたちのぼくが、餞別せんべつだけで二百円ばかり、ポケットに入れていたんですから――。

そのころ、ぼくは、銀座のシャ・ノアルというカフェのN子という女給から、誘惑ゆうわくされていました。 そして、それが、ぼくが好きだというより、ぼくの童貞どうていだという点に、迷信めいしんじみた興味をもち、かつ、その色白で、瞳のすずしい彼女かのじょが、先輩Kさんの愛人である、とも、きかされていました。 その晩、それを思い出すと、腹がたってたまらず、よし、おれでも、大人なみの遊びをするぞと、覚悟かくごをきめていた訳です。 が、さすがにこうやって働いている運転手さん達には、すまなく感じ、うちに着いてから、七十銭ぎめのところを一円やりました。

うちに入ると、助手が運んでくれた荷物は、ぐちゃぐちゃにこわれている。 が、最初のぼくの荷造りが、いい加減だったのですから、気にもとめず、玄関げんかんへ入り、その荷物を置いたうしろから顔をだした、しわ雀斑そばかすだらけの母に、「ほら、背広まで貰ったんだよ」と手をッこんで、出してみせようとしたが手触てざわりもありません。 「おやッ」といぶかしく、運んでくれた助手にたずねてみようと、表に出てみると、もう自動車は、白いけむりが、かすかなほどはるかの角を曲るところでした。

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オリンポスの果実 - 情報

オリンポスの果実

オリンポスのかじつ

文字数 74,756文字

著者リスト:
著者田中 英光

底本 オリンポスの果実

青空情報


底本:「オリンポスの果実」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年9月30日発行
   1991(平成3)年11月30日52刷改版
初出:「文学界」
   1940(昭和15)年9月号
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2-67)と「≫」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大野晋
校正:伊藤時也
2000年2月7日公開
2011年6月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:オリンポスの果実

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