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猫町 散文詩風な小説

著者:萩原朔太郎

ねこまち - はぎわら さくたろう

文字数:10,337 底本発行年:1976
著者リスト:
著者萩原 朔太郎
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序章-章なし

はえたたきつぶしたところで、蠅の「物そのもの」は死にはしない。 単に蠅の現象をつぶしたばかりだ。 ――

ショウペンハウエル。

[#改ページ]

旅へのいざないが、次第に私の空想ロマンから消えて行った。 昔はただそれの表象、汽車や、汽船や、見知らぬ他国の町々やを、イメージするだけでも心がおどった。 しかるに過去の経験は、旅が単なる「同一空間における同一事物の移動」にすぎないことを教えてくれた。 何処どこへ行って見ても、同じような人間ばかり住んでおり、同じような村や町やで、同じような単調な生活を繰り返している。 田舎いなかのどこの小さな町でも、商人は店先で算盤そろばんはじきながら、終日白っぽい往来を見て暮しているし、官吏は役所の中で煙草タバコを吸い、昼飯の菜のことなど考えながら、来る日も来る日も同じように、味気ない単調な日を暮しながら、次第に年老いて行く人生をながめている。 旅への誘いは、私の疲労した心の影に、とある空地あきちえた青桐あおぎりみたいな、無限の退屈した風景を映像させ、どこでも同一性の方則が反覆している、人間生活への味気ない嫌厭けんえんを感じさせるばかりになった。 私はもはや、どんな旅にも興味とロマンスをなくしてしまった。

久しい以前から、私は私自身の独特な方法による、不思議な旅行ばかりを続けていた。 その私の旅行というのは、人が時空と因果の外に飛翔ひしょうし得る唯一の瞬間、すなわちあの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。 と言ってしまえば、もはやこの上、私の秘密について多く語る必要はないであろう。 ただ私の場合は、用具や設備に面倒な手数がかかり、かつ日本で入手の困難な阿片あへんの代りに、簡単な注射や服用ですむモルヒネ、コカインの類を多く用いたということだけを附記しておこう。 そうした麻酔によるエクスタシイの夢の中で、私の旅行した国々のことについては、此所ここに詳しく述べる余裕がない。 だがたいていの場合、私はかえるどもの群がってる沼沢地方や、極地に近く、ペンギン鳥のいる沿海地方などを彷徊ほうかいした。 それらの夢の景色の中では、すべての色彩があざやかな原色をして、海も、空も、硝子ガラスのように透明な真青まっさおだった。 めての後にも、私はそのヴィジョンを記憶しており、しばしば現実の世界の中で、異様の錯覚を起したりした。

薬物によるこうした旅行は、だが私の健康をひどく害した。 私は日々に憔悴しょうすいし、血色が悪くなり、皮膚が老衰によどんでしまった。 私は自分の養生ようじょうに注意し始めた。 そして運動のための散歩の途上で、る日偶然、私の風変りな旅行癖を満足させ得る、一つの新しい方法を発見した。 私は医師の指定してくれた注意によって、毎日家から四、五十町(三十分から一時間位)の附近を散歩していた。 その日もやはり何時いつも通りに、ふだんの散歩区域を歩いていた。 私の通る道筋は、いつも同じように決まっていた。 だがその日に限って、ふと知らない横丁を通り抜けた。 そしてすっかり道をまちがえ、方角をわからなくしてしまった。 元来私は、磁石の方角を直覚する感官機能に、何かの著るしい欠陥をもった人間である。 そのため道のおぼえが悪く、少し慣れない土地へ行くと、すぐ迷児まいごになってしまった。 その上私には、道を歩きながら瞑想めいそうふける癖があった。 途中で知人に挨拶あいさつされても、少しも知らずにいる私は、時々自分の家のすぐ近所で迷児になり、人に道をきいて笑われたりする。 かつて私は、長く住んでいた家のまわりを、へいに添うて何十回もぐるぐると廻り歩いたことがあった。 方角観念の錯誤から、すぐ目の前にある門の入口が、どうしても見つからなかったのである。 家人は私が、まさしくきつねに化かされたのだと言った。 狐に化かされるという状態は、つまり心理学者のいう三半規管の疾病であるのだろう。 なぜなら学者の説によれば、方角を知覚する特殊の機能は、耳の中にある三半規管の作用だと言うことだから。

序章-章なし
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猫町 - 情報

猫町 散文詩風な小説

ねこまち さんぶんしふうなろまん

文字数 10,337文字

著者リスト:

底本 猫町 他十七篇

親本 萩原朔太郎全集 第五卷

青空情報


底本:「猫町 他十七篇」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年5月16日第1刷発行
   1997(平成9)年12月5日第4刷発行
底本の親本:「萩原朔太郎全集 第五卷」筑摩書房
   1976(昭和51)年1月25日
初出:「セルパン」
   1935(昭和10)年8月号
※副題は底本では、「散文詩風な小説(ロマン)」となっています。
入力:ryoko masuda
校正:浜野智
1999年1月12日公開
2018年10月15日修正
青空文庫作成ファイル:
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