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山月記

著者:中島敦

さんげつき - なかじま あつし

文字数:5,787 底本発行年:1969
著者リスト:
著者:中島 敦
底本: 李陵・山月記
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序章-章なし

隴西(ろうさい)の李徴(りちょう)は博学才穎(さいえい)、天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついで江南尉(こうなんい)に補せられたが、性、狷介(けんかい)、自(みずか)ら恃(たの)むところ頗(すこぶ)る厚く、賤吏(せんり)に甘んずるを潔(いさぎよ)しとしなかった。 いくばくもなく官を退いた後は、故山(こざん)、※(「埒のつくり+虎」、第3水準1-91-48)略(かくりゃく)に帰臥(きが)し、人と交(まじわり)を絶って、ひたすら詩作に耽(ふけ)った。 下吏となって長く膝(ひざ)を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺(のこ)そうとしたのである。 しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐(お)うて苦しくなる。 李徴は漸(ようや)く焦躁(しょうそう)に駆られて来た。 この頃(ころ)からその容貌(ようぼう)も峭刻(しょうこく)となり、肉落ち骨秀(ひい)で、眼光のみ徒(いたず)らに炯々(けいけい)として、曾(かつ)て進士に登第(とうだい)した頃の豊頬(ほうきょう)の美少年の俤(おもかげ)は、何処(どこ)に求めようもない。 数年の後、貧窮に堪(た)えず、妻子の衣食のために遂(つい)に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。 一方、これは、己(おのれ)の詩業に半ば絶望したためでもある。 曾ての同輩は既に遥(はる)か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙(しが)にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才(しゅんさい)李徴の自尊心を如何(いか)に傷(きずつ)けたかは、想像に難(かた)くない。 彼は怏々(おうおう)として楽しまず、狂悖(きょうはい)の性は愈々(いよいよ)抑え難(がた)くなった。 一年の後、公用で旅に出、汝水(じょすい)のほとりに宿った時、遂に発狂した。 或(ある)夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇(やみ)の中へ駈出(かけだ)した。 彼は二度と戻(もど)って来なかった。 附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。 その後李徴がどうなったかを知る者は、誰(だれ)もなかった。

翌年、監察御史(かんさつぎょし)、陳郡(ちんぐん)の袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)(えんさん)という者、勅命を奉じて嶺南(れいなん)に使(つかい)し、途(みち)に商於(しょうお)の地に宿った。 次の朝未(ま)だ暗い中(うち)に出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人喰虎(ひとくいどら)が出る故(ゆえ)、旅人は白昼でなければ、通れない。 今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜(よろ)しいでしょうと。 袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は、しかし、供廻(ともまわ)りの多勢なのを恃み、駅吏の言葉を斥(しりぞ)けて、出発した。 残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎(もうこ)が叢(くさむら)の中から躍り出た。 虎は、あわや袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)に躍りかかるかと見えたが、忽(たちま)ち身を飜(ひるがえ)して、元の叢に隠れた。 叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟(つぶや)くのが聞えた。 その声に袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は聞き憶(おぼ)えがあった。 驚懼(きょうく)の中にも、彼は咄嗟(とっさ)に思いあたって、叫んだ。 「その声は、我が友、李徴子ではないか?」袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かった李徴にとっては、最も親しい友であった。 温和な袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)の性格が、峻峭(しゅんしょう)な李徴の性情と衝突しなかったためであろう。

叢の中からは、暫(しばら)く返辞が無かった。 しのび泣きかと思われる微(かす)かな声が時々洩(も)れるばかりである。 ややあって、低い声が答えた。 「如何にも自分は隴西の李徴である」と。

袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懐(なつ)かしげに久闊(きゅうかつ)を叙した。 そして、何故(なぜ)叢から出て来ないのかと問うた。 李徴の声が答えて言う。 自分は今や異類の身となっている。 どうして、おめおめと故人(とも)の前にあさましい姿をさらせようか。 かつ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭(いふけんえん)の情を起させるに決っているからだ。 しかし、今、図らずも故人に遇(あ)うことを得て、愧赧(きたん)の念をも忘れる程に懐かしい。 どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形を厭(いと)わず、曾て君の友李徴であったこの自分と話を交してくれないだろうか。

後で考えれば不思議だったが、その時、袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は、この超自然の怪異を、実に素直に受容(うけい)れて、少しも怪もうとしなかった。

序章-章なし
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山月記 - 情報

山月記

さんげつき

文字数 5,787文字

著者リスト:
著者:中島 敦

底本 李陵・山月記

青空情報


底本:「李陵・山月記」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年9月20日発行
入力:平松大樹
校正:林めぐみ
1998年11月12日公開
2010年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:山月記

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