• URLをコピーしました!

文字禍

著者:中島敦

もじか - なかじま あつし

文字数:6,433 底本発行年:1987
著者リスト:
著者中島 敦
0
0
0


序章-章なし

文字のれいなどというものが、一体、あるものか、どうか。

アッシリヤ人は無数の精霊を知っている。 夜、やみの中を跳梁ちょうりょうするリル、そのめすのリリツ、疫病えきびょうをふりくナムタル、死者の霊エティンム、誘拐者ゆうかいしゃラバスなど、数知れぬ悪霊あくりょう共がアッシリヤの空にち満ちている。 しかし、文字の精霊については、まだだれも聞いたことがない。

そのころ――というのは、アシュル・バニ・アパル大王の治世第二十年目の頃だが――ニネヴェの宮廷きゅうていみょううわさがあった。 毎夜、図書館の闇の中で、ひそひそとあやしい話し声がするという。 王兄シャマシュ・シュム・ウキンの謀叛むほんがバビロンの落城でようやくしずまったばかりのこととて、何かまた、不逞ふていの徒の陰謀いんぼうではないかと探ってみたが、それらしい様子もない。 どうしても何かの精霊どもの話し声にちがいない。 最近に王の前で処刑しょけいされたバビロンからの俘囚ふしゅう共の死霊の声だろうという者もあったが、それが本当でないことは誰にもわかる。 千に余るバビロンの俘囚はことごとく舌をいて殺され、その舌を集めたところ、小さな築山つきやまが出来たのは、誰知らぬ者のない事実である。 舌の無い死霊に、しゃべれる訳がない。 星占ほしうらない羊肝卜ようかんぼくむなしく探索たんさくした後、これはどうしても書物共あるいは文字共の話し声と考えるより外はなくなった。 ただ、文字の霊(というものが在るとして)とはいかなる性質をもつものか、それが皆目かいもく判らない。 アシュル・バニ・アパル大王は巨眼縮髪きょがんしゅくはつの老博士ナブ・アヘ・エリバをして、この未知の精霊についての研究を命じたもうた。

その日以来、ナブ・アヘ・エリバ博士は、日ごと問題の図書館(それは、その後二百年にして地下に埋没まいぼつし、さらに二千三百年にして偶然ぐうぜん発掘はっくつされる運命をもつものであるが)に通って万巻の書に目をさらしつつ研鑽けんさんふけった。 両河地方メソポタミヤでは埃及エジプトと違って紙草パピルスを産しない。 人々は、粘土ねんどの板に硬筆こうひつをもって複雑な楔形くさびがた符号ふごうりつけておった。 書物はかわらであり、図書館は瀬戸物屋せとものやの倉庫に似ていた。 老博士の卓子テーブル(そのあしには、本物の獅子ししの足が、つめさえそのままに使われている)の上には、毎日、累々るいるいたる瓦の山がうずたかく積まれた。 それら重量ある古知識の中から、かれは、文字の霊についての説を見出みいだそうとしたが、無駄むだであった。 文字はボルシッパなるナブウの神のつかさどりたもう所とよりほかには何事も記されていないのである。 文字に霊ありや無しやを、彼は自力で解決せねばならぬ。 博士は書物をはなれ、ただ一つの文字を前に、終日それとにらめっこをして過した。 卜者ぼくしゃは羊の肝臓かんぞう凝視ぎょうしすることによってすべての事象を直観する。 彼もこれにならって凝視と静観とによって真実を見出そうとしたのである。 そのうちに、おかしな事が起った。 一つの文字を長く見詰みつめている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯こうさくとしか見えなくなって来る。 単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とをつことが出来るのか、どうしてもわからなくなって来る。 老儒ろうじゅナブ・アヘ・エリバは、生れて初めてこの不思議な事実を発見して、おどろいた。 今まで七十年の間当然と思って看過していたことが、決して当然でも必然でもない。 彼はからこけらの落ちた思がした。 単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か? ここまで思いいたった時、老博士は躊躇ちゅうちょなく、文字の霊の存在を認めた。 たましいによって統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。

この発見を手始めに、今まで知られなかった文字の霊の性質が次第に少しずつ判って来た。 文字の精霊の数は、地上の事物の数ほど多い、文字の精は野鼠のねずみのようにを産んでえる。

ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの街中を歩きまわって、最近に文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一々たずねた。 文字を知る以前に比べて、何か変ったようなところはないかと。 これによって文字の霊の人間に対する作用はたらきを明らかにしようというのである。 さて、こうして、おかしな統計が出来上った。

序章-章なし
━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

文字禍 - 情報

文字禍

もじか

文字数 6,433文字

著者リスト:
著者中島 敦

底本 ちくま日本文学全集 中島敦 (2)

親本 中島敦全集 第一巻

青空情報


底本:「ちくま日本文学全集 中島敦」」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年7月20日第1刷発行
底本の親本:「中島敦全集 第一巻」筑摩書房
   1987(昭和62)年9月
初出:「文学界」
   1942(昭和17)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「古譚」です。
入力:野口英司
校正:野口英司、富田倫生
1997年11月17日公開
2014年1月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:文字禍

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!